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【日本史8】平安史備忘録53(清和源氏・甲斐源氏・平維盛・平忠度・富士川の戦い・源義経)

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①清和源氏に連なる源(木曾)義仲は信濃国(長野県)で平家打倒に立ち上がった。甲斐国(山梨県)を地盤とする甲斐源氏のリーダーの武田信義も頼朝に同調した。

②清盛は後白河法皇から頼朝ら東国の反平家勢力を討伐してほしいという宗の院宣を得た。孫の平維盛を総大将とする2万もの軍勢を派遣した。清盛の末弟の忠度が補佐した。

③忠度は武人のみならず『新勅撰和歌集』『玉葉和歌集』に詠んだ和歌が収録されるなど教養もあった。平家の本拠地の福原は陸路が未発達であったので維盛の軍勢は出発が遅れた。

④甲斐源氏の軍勢は兵力を増やして西へ侵攻した。1180年(治承4年)10月に両軍は現在の静岡県富士市の富士川流域で戦った。藤原経房の日記『吉記』によれば平家の勢力圏の西国は兵糧が不足していた。ゆえに維盛の軍勢は士気が低かった。

⑤強制動員された東国の武士は清盛に忠義を尽くす義理などないため甲斐源氏の陣営に寝返る者も多かった。

『吾妻鑑』では深夜に甲斐源氏の軍勢が夜襲をはかったが水鳥の大軍が一斉に飛び立ち平家の兵は大きな羽音を大軍の強襲と勘違いして大混乱に陥り撤退した。

⑥富士川の戦いで源氏側は戦わず勝利した。頼朝はほとんど何もしなかった。維盛の軍勢と合流する予定だった大庭景親は同地で頼朝に捕まり倒された。

⑦平家軍が撤退する直前に頼朝のもとに異母弟の義経が参加した。頼朝より12歳下で幼名は牛若と云われる。後世の創作で平安京の南東に位置した五条大橋で僧兵の武蔵坊弁慶を倒して家来にしたという伝承が知られている。現在では弁慶は架空の人物で存在しないと云われている。

⑧平治の乱の際に義経は鞍馬寺(京都市左京区)に預けられた。
幼少期から父の仇を討伐すべく修行をしていたと云われている。
後に奥州藤原氏のもとに身を寄せた。

⑨当主の藤原秀衡は中立であったが平宗盛は秀衡が頼朝の討伐に動くことを期待して秀衡を陸奥国(青森県・岩手県・宮城県・福島県)の国司に任じている。秀衡は平家と距離を置き続けた。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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