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【日本史8】平安史備忘録51(源頼朝挙兵・山木兼隆襲撃・石橋山の戦い・三浦義明・義澄・千葉常胤・上総広常・鎌倉拠点)

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①平家打倒を唱えた以仁王の令旨が各地に伝わり、1180年(治承4年)8月に源義朝の嫡男の頼朝が挙兵した。平治の乱で伊豆国に流刑された後に蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市)で約20年を過ごして国司に仕える地方豪族の北条時政の娘の政子を妻とした。

②頼朝は大軍を指揮した事はなく直属の家来はほとんどいなかった。

乳母の親族で朝廷に仕えていた三好康信から宮中と平家の動向についての情報を得ていた。関東の武士たちの後押しがあった。

③頼朝らは時忠の配下である目代の山木兼隆を襲撃した。その後に相模国(神奈川県)に向かった。

追従する兵は少なく石橋山(神奈川県小田原市)で平家に臣従する大庭景親と伊藤祐親が率いる軍勢に敗北した。

④頼朝らが逃走するなかで時政の子の宗時が亡くなった。頼朝自身は洞窟に隠れていたが景親の配下の梶原景時に見つかった。理由は不明だがあえて見逃し後に頼朝の味方になった。

⑤頼朝は後に安房国(千葉県南部)にたどり着くと義朝に仕えて景親と敵対していた三浦義明と義澄の親子と合流した。

⑥続いて今の千葉県北部・中部を支配していた千葉常胤・上総広常が頼朝の参加に加わった。広常は配下に1万もの兵がいたと云われており頼朝の戦力は増大した。頼朝の異母弟である範頼は頼朝の軍勢に合流した。

⑦1180年10月に頼朝らは相模国の鎌倉に入ってここを本拠地とした。

鎌倉は相模守を務めた源頼義が1063年(康平6年)に源氏の氏神を祀る由比若宮(鶴岡八幡宮)を築いて以来関東の源氏拠点であった。三方を山に囲まれ、南は海に面していたので防衛に適していた。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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