書くこと、カントのこと、ソフィストとフィロソポス、呼吸とシシュポス
1 書くこと
なんかどうしても書きたいことがあって沢山書いた。特に土日は中島先生の塾以外の時間はほぼそれだけに費やしたので、結構沢山書けた。書く時に、読まれぬことをわかってはいても読まれるという前提で書くほうが正しい。それも自分に読まれると前提するのではなくて、全く赤の他人に読まれることを想定して書くほうがおそらくは正しいのであろう。書くときにはかかる規則を与えねばならない、というのが書くことの本質なのではないか。
2 カントのこと
ところで塾では純粋理性批判の神の存在証明のところを読んでいる。噂に聞く以上に驚くべきは、カントはあたかも何一つ神の存在証明の先行研究をせずに批判しているかのようなところである。典拠もまったく示されていないのは自明であるが、カントがしかじかだからそう「ではない」と批判しているポイントこそが、しかじかだからそう「である」と、例えばアンセルムスなら言うだろう、と思ったところが一つあった。
しかし、人は名目的説明によっては、あるものの非存在を断じて思考し得ないものとみなすことを不可能にするような諸条件に関しては、なんらいっそう賢明となることはないのである。ところが本来、そうした諸条件こそが人が知ろうと欲するところのものであって…
『純粋理性批判』A503/B621 平凡社ライブラリー原佑訳p405
「名目的nominale説明によっては」というのが重要なところではあろうが、そこに対する説明は少なくともあまり明快ではなく、それをよく見なかったら、「あるものの非存在を断じて思考しえない」というのは、アンセルムスの「それよりも大なるものを考えられ得ない」とほとんど同じである。そして、「不可能にするような諸条件に関してはなんら一層賢明となることはない」からこそ、アンセルムスは「存在する」と言うであろうと私には思われた。それを中島先生に質問したら、カントはアンセルムスが「存在する」と言うまさにそのときに、「存在する」などとは「言わせない」と中島先生は答えた。
3 ソフィストとフィロソフォス
『ソフィストとは誰か』では、プラトン『ゴルギアス』の冒頭が次のように説明されている。
ゴルギアスの自負する「演示epideixis」に対して、プラトンがソクラテス哲学の「対話dialogos」を挑戦させる、対話編全体の趣旨を示している。人々の前で美しい言辞をつらねる弁論は別の機会にして、一問一答の対話で共に探求を、と要求するソクラテスに、ゴルギアスの側は一向に意に介さず、そういった一問一答も「演示」の一つであると受け入れる。
哲学を弁論術から明確に区別し、対比させようとする哲学者の側の試みと、哲学の言説も弁論術の内部に回収して差異を消し去るソフィスト側の戦略とが、これほど明瞭に表現されている箇所は他にない。
『ソフィストとは誰か』p156 納富信留
事情が以上のようなものであるとするのなら、哲学の側からは次のように付け加えて対比を強調することができる。すなわち、哲学の見かけは自明にある新種の弁論術なのであるが、弁論術と哲学自身とを共に内部に回収した上で、差異を明確に区別し対比するのである。そのようにしてこそ、哲学は弁論術の見かけを取り払うのである、と。そのことがもしも正しいのであるとすれば、ゴルギアスの演示に対し、あるいは答えあるいは問いながら、対話の内部に回収していくのでなければならない。そうだとすれば、「共に探求を」などとソクラテスは求めるべきではなかった。むしろ「是非とも演示をやっていただきたい」と求めるべきだったのである。かかるイロニーの人としてのソクラテスは、キルケゴールによれば喜劇作家のアリストファネスによってプラトンよりも一層明確に描き出されているということである。
4 呼吸とシシュポス
呼吸の転換点には二つの種がある。吸い込みから吐き出しが一つともう一つは吐き出しから吸い込み。転換点をなるべく滑らかに、緩やかにするように、呼吸を長くするよう心がけてもらいたい。そうすると、次のことに気づかないだろうか。吸い込みから吐き出しの転換点では、意図する通りに容易に緩やかに移行する。しかしながら、吐き出しから吸い込みの転換点では、意図に反してとでも言いたくなるように、吸い込みへと自然にあるいは突発的にとさえ言いたくなるように、移行するのである。これと同程度に唐突に、シシュポスの岩が山頂から転がり落ちるように、私には思われた。
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