主観性の無限に放恣な自由としてのソクラテスのイロニー

キルケゴール、キルケゴール著作集21白水社『イロニーの概念(下)』
pp99-100
真理は、みずからの声を上げる前には沈黙を要求するのであって、この沈黙をソクラテスはもちきたさねばならなかった。それゆえに、彼はひたすら否定的であったのである。そして、彼が肯定性をもっていたとしたら、現に彼がそうであったように、また彼が世界におけるおのれの使命をはたしそこなわないためには余儀なくそうでなければならかったように、あれほど無慈悲には決してならなかったであろうし、あのような食人者(ひとくい)にも決してならなかったであろう。このことに対しても彼にはまた備えができていた。ソフィストたちがすべての事柄に答えることができたとすれば、彼は問うことができた。ソフィストたちがいっさいを知っていたとすれば、彼はまるで何ひとつ知らなかった。ソフィストたちがとめどなく語ることができたとすれば、彼は沈黙することができたーーすなわち彼は対話することができた(注1)。ソフィストたちの行列が華々しい尊大なものでああったとすれば、ソクラテスの登場は静かなつつましいものであった。ソフィストたちの行状が派手で享楽的であったとすれば、彼のそれはみすぼらしくて禁欲的であった。ソフィストたちの目的が国家における権勢であったとすれば、ソクラテスは国事にかかわり合うことを好まなかった。ソフィストたちの授業の支払いの容易でないものであったとすれば、ソクラテスのそれも逆の意味でそうであった。ソフィストたちの望みが食卓の最上席につくことであったとすれば、ソクラテスは末席につくことで満足した。ソフィストたちがひとかどの者として重んじられることを望んだとすれば、ソクラテスは好んでまったくとるにたらぬ者であることを欲した。ところで、このことは道徳的強さの例証とも解されることができるが、しかしそこにむしろソフィストたちの狼藉に対する、イロニーの内的無限性にささえられた一種の間接的な反論を見る方が、おそらくいっそう正しいはずである。たしかに或る意味ではソクラテスの道徳的強さが問題となることもありうるが、しかしこのことに関して彼が到達した地点は、やはりまず第一に、主観性がそれ自身でそれ自身を規定するという否定的規定であったし、彼には、そこにおいて主観性の自由そのものが自由であるところの客観性が、すなわち、主観性を制限するのでなくかえって拡充する限定であるところの客観性が、欠けていたのである。彼が到達したのは、一般的にいって、抽象における観念的無限性の内的徹底そのものであり、そしてその抽象においては、それは一つの美的規定や一つの道徳的規定であるのと同じくらい一つの形而上学的規定なのである。ソクラテスがあのようにしばしば提起する<罪とは無知である>という命題が、すでに十分にこのことを示している。われわれがソクラテスに見るものは、主観性の無限に放恣な自由であるが、しかしこれこそまさにイロニーなのである。
注1:ソフィストたちの饒舌や長話は、いわば、彼らが所有していた肯定性の一つの表示である。

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