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手の届く範囲つまり「生活」を見つめていくことが重要だと思う。

この文章を書いたのはたぶん2000年くらい。すべてを他人のせい、環境のせい、政治のせい、景気が悪いせい、と言わずに生きていこう。自分のために自分の人生を生きていこう。そんな気持ちで書いたことを思い出します。東京港区のおへそのような「麻布十番」という街を選んで、ここでの小さなセーフティネットを創りながら、人と社会を見つめる「マーケットインサイト」と「アナリティクス」を仕事にして、常に自分を育て、家族を愛し、猫を愛して生きていければと、ぼくは心から思っているわけです。

そんな思いは博報堂を退社した2000年の頃から変わりません。大会社のGoing concernに取り込まれず、自らの意志で、自らの人生を切り開いていくこと。それがぼくの人生のテーマです。ちなみに以下の文章、そのときのタイトルは「シジュポスの苦役を越えて」です。

立ち飲みはいまでも好き。(笑)

1.違和感

 東京郊外の風景を車窓から眺めると緩やかに起伏する丘の斜面には均一な印象を与える住宅が無数に建っている。この家の数だけ働く人がいるのだ。数年前、私はある種の感慨に包まれながら焦点の合わない風景が流れ去っていくのを眺めていた。たくさんの人たちの家、彼らはほぼその一生をかけてこの家を残したのだ。ふと私の脳裏をそんな意識が横切った。そして再び見た車窓の光景は陽光を浴びて輝く家々が無数の墓標に変わっていた。その人の一生を凝縮したものがこの家々だとしたら、それはまるで墓標のようなものではないか。丘の稜線に沿って並ぶ美しい墓標。我々は一生をかけて家をひとつ残していくだけなのか。いや何かが違う。我々は一生をかけて墓標を作るために生まれてきた訳ではないはずだ。何かが違う。その違和感は以来私を捉えて離さなかった。そしてその違和感は日本という国のあらゆる局面で感じられるのだ

2.日本という装置

 日本は巨大な生産装置である。この巨大生産装置の使命は生産の最大化であって、決して生活の最適化ではないのだ。戦後半世紀以上もの間、官民が一体となってその使命を全うしてきた。GDP(国内総生産)は際限なく伸長を続けてきたし、日本国民はプラス成長を当然のこととして受容し始めていた。また一方で日本国民は巨大な装置が生み出す巨大な生産物を受け止めてきた。何もない時代からの長い時間、受け止めるべきものはいくらでもあった。住宅、自家用車、クーラー、テレビ、冷蔵庫等々。
 巨大な生産装置・日本は更にその有り余る力で国外へもモノをばら撒いてきた。しかし、今、その日本が喘いでいる。なぜだろうか。

3.シシュポスの苦役

.........シシュポスは両の腕で、巨大な岩を押し上げる。しかし岩が頂上に届いたと思ったとたん、突然何かの力で岩は傾き、底まで転がり落ちてしまうのだ!....(ホメロス『オデュッセイア』第11巻594)

 日本経済不調の原因は需給バランスの問題だと言われる。現在の日本は供給過剰であるという論調である。それはそうだろう。私が思うに極論すれば日本は需要のことなど考えたことがないのだ。常に生産し続けることしかできないのが日本なのだから。日本は永遠に生産を続ける永久機関なのだ。そして日本国民は永遠に生産を受け止めるための消費を強制されるのだ。
 これは神々の怒りに触れて巨大な岩を山の頂きまで永遠に押し上げ続けることを強いられたシシュポスの苦役にも似ている。その意味も分からないまま、モノの有り難味も分からないまま、ただモノを作り続け、買い続けなければならない。それが日本であり、日本国民なのだ。私が過日、車窓から見た家々は日本国民を押し潰そうとする大きな岩の象徴なのだ。

4.「日本の再興」という幻影

 この苦役に日本を日本国民を追い込んだものは何か。この内省なくして日本の未来はないだろう。国を挙げての生産装置に「変態」したのは何のためか。遮二無二追い求めてきたGDPの成長は何のためか。その目的の喪失が現在の日本の不幸を生んだのだ。敗戦直後の日本国民を支配していたのは、坂口安吾が『堕落論』で言う無邪気な安堵感だったのではなかろうか。家も家族も失い、ただ命があるだけ。ただ生きているという幸福感。戦争という混乱期が終わりを迎えたのだという純粋で無邪気な安堵感。人間がもはや尊厳を持った人間でなく群衆に過ぎなかった瞬間。その精神の空白に忍び込んだのが「日本の再興」という抽象的な目的だったのではなかろうか。そしてその目的は以来人々の精神を支配し続けているのだ。「日本の再興」はどんな姿であるべきか、どんな姿を望むのか、日本人はどんな生活を手にしたいのか、そうした内省はここにはなく抽象的な再興という目的だけが人々の精神を捉えてしまったのだ。そしてそれ以来、日本人は夢遊病のようにただフラフラと前へ進むだけの目的の奴隷へと堕した。
 そもそも「日本の再興」とは何か。それは当初は、焼け野原に建物が再建されることだっただろう。しかし高速道路網が走り、新幹線が走り、高層ビルが建設され、その復興のシンボルとして東京オリンピックが開催され、念入りに設計された巨大な生産装置が唸りを上げ、円の対ドルレートが上がり、地価が上がり、いつしかライジングサンと呼ばれた日本。その時果たして日本は真の「再興」を手にしたのだろうか。それは誰にも評価できない。到達すべきゴールを明確に設定しなかったのだから。終わりの無い道を選んでしまったのだから。
 翻ってもうひとつの敗戦国ドイツを見てみよう。暉峻淑子著『豊かさとは何か』によればドイツの再興は人の再興から始まった。人間の尊厳を取り戻すことから始まった。人間の尊厳を維持できる住宅を再建することから始まった。よって産業の復興は日本に遅れることおよそ20年である。その間ドイツを訪れた日本の官僚はその遅い復興を笑ったという。その時日本は既に巨大生産装置への「変態」を終えていたのだ。

5.個の経済からの再構築

 今、私は日本の復興の物的側面は一部評価しよう。事実現在日本にはモノが溢れている。日本製のモノ、外国製のモノ、ありとあらゆるモノが溢れている。そして国民もそれを購入できる程度の経済力をもっている。その意味で日本の復興の物的側面は一定の水準で評価できよう。しかし生産主導の復興策が日本人の尊厳をスポイルしてきたこと、多くの日本人をして生産を受け止めるだけの消費者、永久機関の奴隷たらしめてきたことを大きな反省点として認めなければならないと思う。
 21世紀の日本経済はこのような内省をもとに需要主導で再構築される必要がある。日本人の個の尊厳回復と個を中心とした生活経済の再構築である。行政→産業→消費者、という外からの規定によって形作られる生活ではなく、個→個の意識・嗜好→必要な商品・サービス→企業→行政という内から外へ向かう経済の再構築である。
 既にマーケティングの領域では「生活者」というキーワードが頻出している。送り手である企業は、受け手である「生活者」のニーズを掬い上げる形で商品を開発し、市場に導入するという動きが事実大半を占めている。 しかし日本の極端な供給主導社会では個々人は大量に供給される商品を任される「消費者」に過ぎず、決して「生活者」とまで呼ばれるほどの主体性を与えられてはいないのだ。だからこそ個の尊厳の回復が日本経済再構築への出発点となるのである。

6.手の届く範囲からの適正化

 21世紀の日本経済を豊かなものにするためには月並みではあるがまず国民の意識改革が必要だろう。国民ひとりひとりが自分を中心に生活を構成しなおすこと。本当に必要なモノを必要な範囲で消費していくこと。消費という行為に対して厳しくなること。今こそ、自分の手の届く範囲から日本の経済を適正化していかなければならないと思う。そして適正な水準で消費を行う厳しい目を持った個人を対象に、企業はマーケティング活動を行う。その企業活動は日本の国力に合った適正なものになるだろう。逆に言えば、こうした適正化された個人の経済活動、企業活動の合算が適正なGDPとなっていくべきなのである。私はマーケティングを仕事としているが、適正な個人経済が確立されていない日本においてマーケティングを行うことは今日まで極めて空虚な行為に思えてならなかった。すべては個人の経済活動が適正に行われることが前提なのである。

 余談だが私は立ち飲み居酒屋が好きである。渋谷や田町の立ち飲み居酒屋は実に活気がある。客の大半は会社員である。そして特に聞き耳を立てている訳ではないが、おそらく彼らは会社の愚痴を話してはいない。自分の子供のこと、趣味の釣りのこと、ペットの犬のこと、最近買ったコンピュータのこと等々、みんな自分の生活のことを話している。カウンターにはその人がその日飲める分のお金が積まれている。その様子は私にスペインやポルトガルのバールを想起させる。そして更に思う、これでいいのではないか、と。これが日本の適正な消費水準なのだ。だから皆、普通に幸せそうにしているのだ。

 日本国民が永遠に続くシシュポスの苦役から脱し人間らしい生活を取り戻すには、自らの適正な生活水準を知り、そこから自信を持って再出発していくことが何より大切だろう。もちろん行政主導で公共料金や住宅施設の低額化、高齢者介護等社会福祉面での基盤の整備を併せて行うことも重要である。そして加えて言えば、日本人は常に考えつづける個であることも忘れてはならない。思考を停止した隙間に不幸が忍び込むこともあるということを忘れてはならない。個から始まり外へと広がる個人生活、個人経済の再構築を行うこと。それができれば21世紀の日本と日本経済は自ずと正しい姿を現すだろう。そしてそれがようやくの戦後の超克、違和感のない新しい日本の始まりになるのだと私は信じたい。

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