本に出会うことは奇跡なこと

宇高の図書館は栃木県を下支えした

 宇高(栃木県立宇都宮高校)には図書館が2つの建物がある。1つは現在の校舎が建てられたときにできた建物。そして、報恩館と呼ばれる建物である。2つの建物には数多くの本があった。新しい本から旧制中学校時代のころから本まで様々な本があった。

 今自分が在籍する慶應のメディアセンター(図書館)と比べたら本の数はだいぶ少ない。でも高校生に読んでほしいと願い、その時代の先生たちが推薦して購入した書物、卒業されて志を立てた先輩方が寄付した本など様々な想いが詰まっている、そんな場所であるのだ。それとともにナンバースクールとして栃木県の発展と思想を下支えしてきた本が眠っている。

図書館は思想の源流であること

 図書館は大なり小なりどこの街にも学校にもある。(とは限らないのだが。)小さな虫にも五寸の魂という。大きい図書館は勿論だが、小さい図書館にもある程度本がある。その町の知識を支えているのだ。図書館はずっと同じ機能をもつものではない。

 図書館のカラーリングが変わり、実用書や雑誌など利用者にとって需要のある本が増えて便利になっている。今は民間企業と手を組んでおしゃれな図書館が増えつつある。使いやすく便利な図書館が増えることは色々な人に図書館を使ってもらえるファクターになるだろう。

 使ってもらえるように使いやすく図書館も変化している。先日高知を訪れた。高知市の中心地にある「オーテピア」と呼ばれる図書館がある。ここは去年県立図書館と市民図書館を合わせた形で開館した。ここは勿論市民に使いやすいのは勿論、高知県の歴史、文化を下支えしてきた書物が保管されている。新しくなっている一方で、こういう学術書が排されているケースもある中で、残されているのはその土地の文化を残し発展していくうえで大事なのではないかと思う。

通信生にとっての図書館の意味合い

 そうそう利用者に使いやすくなる中で従来からある学術書や郷土史などの本は片隅に寄せられつつも、長々をその場所に据えている。開く人はいるのだろうか。そう思いつつもその本は腰を据えている。一見すると大きく場所を取っている、そう思われても仕方ないような気がする。でも、実は図書館にとってそれらの本が図書館、その町の軸なのだ。

 図書館に対して見方が変わったのは自分が慶應通信に入ってその見方が大きく変わった。レポート書くために図書館の本を使うようになったからというのは一次的な見方なのだが、実は図書館にある知というのはこのような本が支えていたことに気づく。よく自分の知を上げるには難しい本を読むべきだとどっかで言われるが本当にその通りだなと思った。

 通信生にとって文献とは命綱に匹敵するものである。文献がなければレポートが書けないのだ。これは自分の価値観を変えることになった。今まで当たり前に本があったはずであるのに、なぜ文献に当たれないのか。自分が読みたいという本はこんなにも入手できないものなのかということに気づいた。

 本は情報の一端である。情報は1つの価値あるものなのだ。そんなことを改めて痛感させられた。

  自分がもし教師だったらおそらく学生には「図書館を使え」と力説するだろう。学生に伝わるかどうかは分からない。でももし学生が本の有用性を在学中に伝われればそれでいいと思うだろう。

 本には人の想いや文化、歴史など様々なものが詰まっている。今ではより多くの人にとって有用な情報が良しとされているようにも思える。でももし少数でも必要なものであるのであればその本の価値は他の何にも代えられないのではないだろうか。🐓

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