考えるについて考えるなど(孤独2)

 さて、学生時代と今で変わってしまったことについてもう少し書いてみる。

 前回は時間の捉えかたが変わった結果、時間のかかる趣味に没頭できなくなったというようなことを書いた。そして、「色々書かなきゃダメだ」と思った理由も、ここら辺にある。

 俺は割と多趣味な人間なほうだと思う。どの趣味にどれくらい時間を割くかとか考えないくらいには、どの趣味も同じように好きだった。思い立ったら、思い立ったことをする。かつてはそんなスタンスだった。

 しかし、前回で書いたように、時間を必要以上に重要視するようになってくると、そういうスタンスを貫けなくなってくる。どうしても、優先順位をつけたくなってしまうからだ。もっとも、優先順位と言っても、厳密なものではなく、「今はこれの気分だな」「今日はこっちかな」程度の軽いもの。

 その結果どうなったかというと、高校生の時に今はなき『NAVERブログ(CURURU)』(韓国では現役なのかな?)でを書くようになってから、『mixi』や『Facebook』、そしてこの『note』など、時期によって媒体を変えつつ、やったりやらなかったり、のらりくらりとしながら、それでも一応継続して行ってきた「書く」ということに手を回さなくなってしまった。

 そして、それが災いして、今の俺がある。そう思う。

 今の俺は、前回も書いた通り、日に日にバカになっているし、もっと言えば、心の均衡も崩しやすくなっているように思う。まぁ、もともと意志薄弱で浮き沈みのあるタイプなのだけれど。でも、それにしたってここまでじゃなかった。

 それじゃあいかんと、そう思ってこうして書いているわけ。

 日常的に書いていた頃に、何についてでもいいから、「書く」っていうのは「考える」ということと同義だという、そんな、なんとなくの実感があった。そして、たぶん、それは当たっている。

 文章を書く、特に、誰かの目に触れることを意識して書くというのは、結構大変だと思う。

 同じところをぐるぐるぐるぐる、何度も何度も行きつ戻りつして、「これが俺の言いたいことか?」とか、「だとしても、これで伝わるか?」とか、「読点のリズムは気持ち悪くないか?」とか、「読みにくいんじゃないか?」とか、「そもそも俺は何が言いたいんだ?」とか。そんなことを考えに考えながら、少しずつ少しずつ「頭の中」という、なんだかよくわからないグチャグチャしたものを、「言葉」に変換していく作業。これこそが、「考える」ということだと思う。

 「頭の中」を「言葉」に変換するといったけれど、「話す」だって、もちろん一緒だ。だから、「話す」ことで頭が整理され、「考える」ことができる人だっているだろう。いや、あるいは「絵」に変換する、「音」に変換する、「映像」に変換する、「物語」に変換する、「動作」に変換する、「金」に変換する、「暴力」に変換するなどなど、色々な方法で「頭の中」を「何か」に変換し、アウトプットすることこそが「考える」なのだと思う。アウトプットのない思考は、ただもやもやとしたままそこにあるだけで、それは「考える」とは言えないのかもしれない。

 いずれにせよ、その人なりの方法で「考える」ということをしないと、人は死ぬ。

 もちろん、考えなくなったからといって、いきなり呼吸困難なり心臓破裂なりしてしまうというわけじゃない。心が死ぬのだ。そして、場合によってはその心の死によって、肉体の死が誘発されることもある。

 本能に従い行動し、食い、眠り、子孫を残すだけで生き続けることができる動物に比べ、人とは、なんて面倒で不完全な生き物なのだろう。まして、利便性や効率という名のもとに、次々と動物的な部分が排除されていく現代において、この人間の特性は、ますます厄介なものになっていると思う。

 そして、この厄介な特性は、現代日本的な意味で言う集団とは、すこぶる相性が悪い。個人的にそう思う。

 現代日本的な意味の集団については、前回でもほんの少し触れたけれど、要するに、「人と同じであることが良きこと」「人と違うということは悪しきこと」という価値観のことだ。同調圧力と言ってもいい。

 そういう価値観の中では、アウトプットする内容も、どうしても「人と同じ」にしてしまいがちである。しかし、そうなると「考える」内容は、段々と「どうしたら変に見られないか」とか、「どうしたら意見を合わせられるか」という方向で固定してしまう。要するに、考えてないのと一緒だ。

 だからこそ、「考える」には孤独が必要であり、もっと極端に言ってしまえば、孤独になれないヤツは「考えられずに死んでいく」のだ。

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