「何食べたい?」という質問に「なんでもいい」なんて返せない
私の人生にとって、
「食」というのは永遠のテーマである。
ある日、悲しいことがあった。
黒い服に袖を通し、私は俯きながら大飯を食らった。いっぱい酒を飲んだ。溢れる涙すらも飲み込みながら、ふと考えた。
「生きる」の類義語は「食べる」だと思う。
食べるということは、生きることだ。
「生」という絶対的な存在の前で、生きることを証明することができる。食べられるやつは強い。生きる力が強い。
私にとって食事は絶対に妥協することのできない、自己を形成するツールなのだ。
食事に行くタイミングでよく交わされる時の会話でこんなことがある。
「おなかすいたね、何食べたい?」
「なんでもいいよ」
この「なんでもいい」議論は、世でよく行われるが、議論の中心となるのは本当になんでもいいのか? ということだ。
何を食べたいのかという質問は食事の選択肢を与えてもらい、その回答からその日に飲食する店を選ぶ参考にする。
予想される回答として、和洋中エスニック等の食事ジャンルやパン麺パスタ米など主に摂りたい主食などが挙げられる。
「なんでもいい」というならば、「じゃあ牛丼は?」「うーん、もう少しヘルシーなのがいいなぁ」というのは禁句である。先ほどの質問はその気分ではないということをはっきり申し伝えるためにある。日本語わからないのか?💢
と言ったように、私は「食」のことになるとたちまち戦争を起こしてしまう。大砲や槍を飛ばし、火薬に火をつけてしまう。とても恐ろしい。
でも、本当に「なんでもいい」って人もいる
私の友人に「なんでもいい」という時は、本当になんでもいいんだよね〜という人がいる。
あまり食に対しこだわりがなく、「食べられるならなんでもいい」という。食べることが栄養を摂取し生命を維持するという目的なのであれば、それも頷ける。
あとは「(◯◯とだったら)なんでもいいよ♡」というタイプかな。そんなことを言った暁には、くく、可愛い奴め…アタシもだよ…と、ほくそ笑む私をみることができるだろう。
実際、「なんでもいい」に救われる時もある。
私は食事にこだわりが強い分、「なんでもいい」といわれると
(ほ、本当になんでもいいのー!?だったら、あの気になってたお店とか〜ッ!あそこのパスタと珈琲もセットでつけたいし〜ッ)
などと、一人盛り上がりを見せ、「じゃあ、◯◯に行きたいなァ〜!♡」と最大のぶりっこで相手を丸め込む。
自分の行きたかったお店、食べたいジャンルのお店に足を運び、うまい飯を食べる。
たちまち、私の機嫌はアフロジャックのDJ並に最高潮になり、ウキウキで帰れる。
しかし、お店が期待外れだった時は訳が違うのだ……
お店の食事がいまいち美味しくなかったり、虫が入ってしまったり、会計を間違えられてしまうなど不快なことが起こると、たちまち気分は大幅ダウンしてしまう。連休明けの出勤並みにテンションが低い。
こうなった時の私はとっても厄介だ。(機嫌取りをしてくれる友人や恋人いつもありがとねー…)いい大人なので気をつけてはいるが、「食」に命をかけている分損した気分を取り返すのに相当時間がかかる。
かといって、食事は「おいしい」がすべてではない
おいしさというのは、単に旨味や甘味や酸味など五味に起因するものだけではなく、環境や盛り付け、食事を共にする人、音楽などの雰囲気などでも変わると言われている。
食べることは、栄養を摂取する目的以外にも、食事を共にすることで交流を図ることや心を満たすこと、お祝いや行事を楽しむことなど様々な意味を持つ。
「食」に対して関心を持っているからこそ、誰と食べるか、どこで食べるか、何を食べるか、いつ食べるのか…。食事に対し、意義を持ち価値を与え生きていきたいと思う。
(熱く語ってしまいましたが、何食べたい?の最適解は質問者によって異なるよね💦アタシのダチはいくつか候補をあげるか、アタシに一任してねー🎶)