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釧路旅行記

 今まで読んだ紀行文に、阿川弘之が書いた「南蛮安房列車」というものがある。変わった知人を伴い、電車へ乗るためだけにわざわざ異国を旅する話だ。観光地には見向きもせず、話は地理的な話を除けばほとんど全て電車の中の出来事で完結している。せっかくわざわざ海外に行ったのにもったいない、と人は思うだろう。
 しかし、私は今や阿川弘之を笑うことはできない。釧路安房列車と題してもいいくらいだ。というのは、釧路に行ったのに釧路湿原をろくに見ず帰ってきてしまったのだ。
 しかし、北海道旅行で一番印象に残っているのはどこかと聞かれたら、なんといっても釧路だ、と答えるだろう。「ローマの休日」のアン王女がラストのインタビューで、一番気に入った都市を「なんといってもローマです」と答えたように。

 網走、知床斜里に自動改札はない。電車が来る時間が近づくと、駅員が改札に出てきてパチリ、パチリと乗客の切符に鋏を入れる。
 一方、釧路駅は自動改札で、駅構内にいくつか店もあった。釧路駅周辺になってやっと、学生など生活圏として利用しているような乗客が増えてきた。電車から釧路湿原が見えないか期待したのだが、着く頃には真っ暗になってしまい何も見えなかった。
 駅前のホテルに荷物を預けて夕食をとることにした。幸い飲食店の並ぶ通りがある。街灯が煌々と灯り、まばらながらも店を探す人々が見えた。海鮮は翌朝食べる予定だったので、歩き回った挙げ句にジンギスカンを食べた。
 北海道のジンギスカンは臭みが少なく食べやすい。一緒に頼んだ北海道限定のビール、サッポロクラシックもまた肉に合いすっきりした旨さを感じた。
 店を出ると時間はまだ20時。釧路で泊まったのはビジネスホテルで温泉も夕食も出ないため、帰るにはまだ早いと感じた。よし、とホテルとは逆方向に歩を進めた。
 どこかで一杯、引っかけて帰ろうか。一期一会に期待して。

 あるバーに目を止めて、ゆっくり扉を開ける。客はおらず、カウンターの向こう側に若い男性が座っていた。営業していることを確認してカウンターに座り、ジントニックを頼んだ。
 その男性は、後で聞いた話だと昔はホストをしていたらしい。その話が意外に思わないくらいには整った、中性的な顔立ちをしていた。余所者は店で嫌がられるかと少し懸念していたが、旅行で東京から来たと話しても温かく迎えてくれた。

 一杯目を飲みながら、どこを旅行してきたのか、これからどこへ向かうのかを聞かれたので一通り話した。翌日は釧路湿原を見に行くつもりだと答えた。彼は釧路に住んでいるが、釧路湿原を見に行ったことはないという。後で同じく釧路に住んでいるという夫婦が店に来たが、彼らも行ったことがないという。近くに住んでいると、わざわざ訪ねようという気にはならないのかもしれない。

 二杯目を迷っているとお通しとして北海道のジャガ芋にラクレットチーズをかけたものが出てきた。せっかくだから北海道らしいものを、とマスターが気を利かせてくれたようだ。芋はやわらかくほんのり甘い。北海道で有名な食べ物は色々あり、どれも美味しいが案外こういった素朴なものが一番記憶に残るものかもしれない。二杯目は十勝で作られたブランデーを飲んだ。甘くしかしきつすぎない香りに夢中になっているうち、酔いが回ってきた。

 私は普段話すのが得意ではないが、酔うと口数が増える。自分がどこから来て今何をしていて、これから何をしたいのか。今まで旅先で色々なバーを訪ねたが、話しているうちに逆にお店の人が自身の生い立ちをぽつり、ぽつりと語ってくれることがたまにある。見知らぬ土地で、全く想像のつかない人生をそこから知る。今回もそんなことがあった。

 マスターは漁師の父の元で育ち、前述の通りホストなど色々な仕事をしながら生活していたらしい。そのうち結婚し子供が生まれたが、事情により別れて一人で息子を育てる決心をする。
 当時、世間で父子家庭に対するサポートというのはほとんどなかったようだ。父子家庭だからできない、ということを言いたくなかったために、マスターは働きながら子供を育て、PTAの役員まで務めたという。

 その話から感じ取れたのは不幸や苦労ではなく、むしろ子供への愛情だった。息子の名前を店にそのまま名付け、クリスマスには彼にピアノを弾かせて小遣い稼ぎをさせるという。息子はもうすぐ高校生になる。どんな道を進むにせよ応援したいと彼は言う。学歴や能力で条件付けない、素直な愛情をそこに感じた。

 見知らぬ人生。旅をしなければ、飲み屋街の外れで足を止めなければ、知ることのできなかった人生。また行く日が来るかはわからないが、釧路と聞くとこれからも私は思い出すだろう。

 夜更けまで飲んでホテルへ帰り、起きるとホテルのモーニングの時間ギリギリだった。慌ててシャワーを浴びて朝食に向かう。美味しいと有名なトーストを食べながら、のんびり釧路湿原へ向かう電車を調べると、次の電車は午後14時だった。その日は札幌へ宿泊する予定で、特急で4時間かかることを考えると次の電車に乗るのは厳しい。

 悩んだ挙句に駅から歩いて行ける展望台を見て、和商市場で勝手丼を食べて帰ってきた。展望台は湿原とは真逆の方向にあったため、そこから湿原は全く見えなかった。釧路駅周辺に広がる町と海、何隻かの船を眺めて帰ってきた。

 道中、見晴らしの良い高台に病院と薬局が並んでいた。小さな薬局からは白衣を着た男性が出てきた。おそらく薬剤師だろう。
 温かいお茶を飲みながらぼんやりと、ああ、選ばなかったものの中にはこういう人生もあったのだろうか、と心の中で呟いた。

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