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旅で自分を見つけられるか

私が頻繁に一人旅をしていることを、大学の同期に「自分探し」と言われたことがある。
その表現が出てくるのはもっともなことだった。当時の私は授業にもろくに出ず、休みのたびに日本各地をフラフラしていた。彼には、私がモラトリアムを誰よりも満喫しているように見えたのだろう。
しかし当時の私は、同期にそう言われてから無性に腹が立った。今思うと、自分のしていることが陳腐な自己啓発のように扱われたと感じたのかもしれない。
私は自分を探すために旅をしているわけではない。崇高な目的があるとは言わないが、だからといって不特定多数の誰かと一緒くたにされるのも何だかしゃくにさわる。
といっても、「それでは何故旅をするのか」と言われると明確な答えを持っていなかったのだが…。

人生に悩んで方々を旅することを「自分探し」ということはあるが、そもそも旅をすることで本当に自分を発見することができるのだろうか。
どこかへ行き、帰ってくる。旅をする前と、帰って来てからの世界は何も変わらない。
私は旅で、自分を見つけたことはあっただろうか。


島根へ旅行した時のことだ。
母より一回り歳上くらいの、品のいい女性が二人で旅行していた。二人の写真を撮ってあげたことをきっかけに、しばし身の上話に花を咲かせた。
「あなた、今おいくつ?」
「22です」
「いいわね、若いからこれから色んな所に行けるわね」
他愛もない、些細な言葉だが、何故か未だにこのやりとりが私の記憶に残っている。
大学で同じ年齢の人たちに囲まれて生活していると意識することはないが、この人たちにとって、22歳は「どこへでも行ける」眩しい存在らしい。
国家試験、そして就職に向けた一直線の道を歩むであろうこれからの生活に、当時は漠然とした不安を感じていた。
そうか、この人たちから見て、私はまだまだこれからどこへも行けるんだ。漫然と過ごすにはあまりにもったいない。
自分の生きる時間がいかに貴重なものかを、彼女たちに教えてもらった気がした。

旅をしただけでは、自分は見つからない。
しかし旅先で何かにぶつかってみて初めて、自分の持っているものはわかる。それは身分や住む場所にとらわれない、生身の自分が持つものだ。
ぶつかるのは誰かとのささやかな会話かもしれないし、アクシデントかもしれない。
別な価値観で生きる人を見て、自分の生き方を相対的に見直す機会になった。道に迷って歩き回るうち、同じく道に迷った人と一緒に目的地を探したこともあった。
自分を探しに行ったわけではないが、旅をした経験は結果として自分を俯瞰し、見つめ直すことに繋がったかもしれない。

逆に言えば、何かにぶつかる機会は旅である必要はない。他の人がサークルや学校の友人関係から得ていたようなことを、私は旅から得ているに過ぎない。
旅だけが特別な「自分探し」ではないと私は思う。

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