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2年以上かけて会社も辞めて書いてる小説、『ファミリーレコード』について

タイトルのとおり、僕は無職になってまで時間をつくり、一本の小説を書き続けている

『ファミリーレコード』という小説だが、たぶんこの小説でやっていることはまだ他の誰もやっていない。

普通の意味で「小説を書く」というレベルではない、複雑怪奇なプロジェクト。

あまりに面倒なことをしているため、せっかく人が興味を持って聞いてくれても、ちゃんと説明ができなかった。

この機会に、どういうことをやってるのか整理しておきたい。

たぶんこの創作過程自体が、一つの読み物、人生論、創作論としても楽しめると思う。

長いけど、お付き合いいただけると嬉しいです。

この小説が生まれた経緯

『ファミリーレコード』は僕の中でさまざまなものが重なって生まれた小説で、「これが原因」とハッキリ断言することはできない。

ただ、「こういうのを書こう」という着想が出てきたときのことは覚えている。

2019年10月。NODA・MAPという劇団の『Q』という劇を観た。

僕はそれまでの人生で、けっこうな数のフィクションに触れてきた。

小説、映画、アニメ、マンガ、ゲーム、演劇……

そのすべての中で、「今の自分にとってのベストはこれだ」と思えたのが『Q』だった。

『ファミリーレコード』は「舞台の上で演じられている物語を、小説として描写する」という小説だ。

小説でありながら、演劇である、という設定はたぶん『Q』からきている。

僕は「自分の根本は虚無であり、人が創った作品の影響下にしか自分の創作はない」と思っている。

だから、「人生ベスト」である『Q』の影響で「演劇を題材にしよう!」という考えはわかりやすい。

ただ、「優れた演劇なら何でもよいのか」というとそうではない。

NODA・MAPの主催者である劇作家、演出家の野田秀樹さんに何か運命的なものを感じた。

まず、野田さんは12月20日生まれで、僕と誕生日が一緒である。

アホかよ」と思ったかもしれないし、実際アホなのかもしれないが、実は「誕生日」も『ファミリーレコード』においてけっこう重要なファクターだったりする。

後で説明するが、『ファミリーレコード』の12人の主人公は、12星座を元につくっていて、星座は誕生日で決まるからだ。(野田さんと僕は射手座)

また、誕生日という数字の一致だけが特別なのではない。

僕は野田さんの劇を観ていて、不遜にも

このアイデア、俺がこの先何十年も生きてたら自分で思いついたものなのでは?

と思う瞬間があったし、インタビューを読んでいても創作者としてのスタンスが似ていると思った。

12星座では星座ごとに価値観や性格のタイプ分けがされている。

それがある程度妥当だとすれば、同じ誕生日の野田さんに、僕が創作者としての共通点を感じることもうなずける

「自分が歩いていく長い道のずっと先に、野田さんがいる」

という気がして、そういう「師匠」みたいな感覚を今まで他の人に感じたことはなかった。

「野田秀樹に感銘を受けたのはわかったけど、だからって演劇を小説にする必要はあるの?

と思った人もいるかもしれない。ごもっともである。

これは説明が難しいのだけど、「舞台の上」という舞台設定でしか書けない小説があると思っている。

演劇の特殊性は、

フィクションでありながら、現実と切り離された世界ではなく、生身の人間が目の前にいる

という、「あいだ」感にあると思う。

小説を読んでいても「自分の身体が作品世界に呑みこまれる」みたいな感じは少ないと思うが、演劇ではそれが起こりやすい。

創り手と受け手の、より深い接続

僕はそこに可能性を感じていて、そのことを書きたいのだと思う。

実際、『ファミリーレコード』の終盤では、「舞台上の物語が客席に押し寄せてきて、観客を呑みこむ」というファンタジーみたいな、夢みたいなことを書く予定だ。

それを現実の舞台で実現するのは、なかなか難しいだろう。

それっぽい演出はできるかもしれないが、僕は演出じゃなく、「物語に呑まれて観客の存在が物理的に消失する」レベルのことを書きたい。

夢と現実が溶けあったような、そのあいだにあるような空間だ。

先日観た『はい、げんきです。』という劇ではそういう空間に近いものを感じて、すごかった。

境界線=ルールとの戦い。あたらよ『はい、げんきです。』を観て思ったこと

脱線したが、これで『ファミリーレコード』には「野田秀樹の演劇」という「枠組み」が与えられた。

次は「コンセプト」だ。

最も大きなコンセプトは「他者」。

「他者」とは「自分以外のもの」「外部」とも言いかえられる。

僕はこれまで「自分の内的な想像世界」ばかりを小説に書いてきた。

登場人物もほとんど空想の産物だ。

けれど、『ファミリーレコード』では「人類の歴史」という外部の物語を描き、登場人物にも「実在のモデル」を設定することにした。

自分ではなく、他者を書く。なぜか?

僕は自分の小説に絶望していた。

自分の内的な空想世界に価値がないとは思っていないが、それは「イメージ」や「感触」に近いもので、人に伝えることがとても難しい

「こういうものを書き続けていても、一生商業作家にはなれないのかもしれないな」

という思いはずっとあって、でも書きたいと思うもの以外を書くのは絶対に嫌だった。

だから、『ファミリーレコード』の着想が生まれたとき、「ついにこの時がきた」と思った。

内的世界ではなく、もっと開かれた外の世界を書く。

それを、「書かなければいけない」という「強制」の意識ではなく、「書くべきだ」「書きたい」という「確信」によって書くモチベーションがやっと生まれた。

その変化を僕にもたらしたのは、『寝ても覚めても』という映画と、僕の恋人だと思う。

『寝ても覚めても』は、濱口竜介監督の恋愛映画だ。

2019年3月に観て、「人生ベストだ……」と思った。

また人生ベストかよ」と思ったかもしれないが、『Q』と『寝ても覚めても』がツートップということで、許していただきたい。

『寝ても覚めても』は恋愛の映画であり、「他者とは何か」を語っている映画でもある。

濱口竜介監督は、

「他者とはどこまで深く潜りこんでも、究極的には『わからない』存在である」

という前提の上で、それでも他者との接続を希求し続ける

「他者との接続」にはいろいろな形があると思うけど、僕の人生で「最も深い接続」をしてきた他者は「恋人」だった。

基本的に、僕は心の底から誰かと絆で結ばれたという感覚を持つことができない。

自分から閉じて、遠ざけている部分がある。

家族や親友のことは信じているが、「相互理解」という意味では、お互いのことをほとんど知らないと言ってもいい気がする。

一番心を開けている気がするのが、恋人だった。

『寝ても覚めても』を観たとき、僕は現在の彼女と既に付き合っていたけれど、心の中には昔の恋人がずっといた。

その元カノは特別な存在だった。

「この人がいなくなった自分の人生を、想像することすらできない。
それは『存在しない』のだから、この人がいなくなったら、自分は死のう」

という狂気的な思考になるほどで、生まれて初めての経験だった。

『寝ても覚めても』は、ヒロインの女性が「運命の人」だと思った元彼と、瓜二つの顔をした男性に出会い、恋愛関係になる……

というあらすじで、当時の僕の状況に重なっていた。

ただ、『寝ても覚めても』のすごさは、「ヒロインに共感できた」というレベルを超えて、「自分が彼女と彼に『なっている』」ような感覚がした、ということだ。

他者になること。それは究極のコミュニケーションの形だと思う。

今の恋人は、僕とまったく価値観が違う。

何度ケンカして別れ話をしたかわからない。

それ以前に付き合った人とそこまで衝突した経験はなかった。

絶対相性はよくない、と思っているけれど、その一方で「圧倒的な他者」だからこそ、学ぶところも多い

彼女は強く「接続」を希求する人だ。真摯な対話を。

「他者」は自分の限界を超えた可能性を見せてくれる

彼女との関わりや、『寝ても覚めても』がそれを教えてくれた。

「他者」を主軸とした『ファミリーレコード』を書くことで、他者を自分の中に取り入れ、自分を変貌させる

この小説を書き終えたとき、僕はこれまでとは違う地平に立ち、新しい景色を見ていると思う。

その旅路を共にする読者にも、何らかの変化を与えられるはずだと信じている。

さて、「他者」というコンセプトは決まったが、それをどうやって形にするか。

ここで登場するのが、「役者」「12星座」「実在の人物」という概念だ。

『ファミリーレコード』の方針を決めた『Q』および『寝ても覚めても』には、共通点がある。

「役者」という他者の存在だ。

『寝ても覚めても』の濱口監督は、演技指導において「役者の他者性を損なわないこと」を重視しているという。

いわゆる「演技っぽい演技」をさせるのではなく、練習段階ではひたすら棒読みでセリフを読ませ、本番のときだけ「感情を入れた演技」をやってもらう。

そうすると「演技っぽい演技」でも「ただの棒読み」でもない、奇跡的なものが撮れると。

参考:演技なのか、ドキュメントなのか 世界を魅了!「濱口メソッド」

その「奇跡的なもの」は、キャラクター単体では生まれない

役者自身が持っているものも引き出され、混ざった状態なのだと思う。

この「キャラクター」と「現実の他者」を混ぜることを、『ファミリーレコード』でもやりたいと思った。

そこで、「12星座」と「実在の人物」を使う。

いわゆる「星座占い」の信憑性については何とも言えないけど、占星術は「古代から存在する」、という点が特別だと思う。

現時点でどれほど流行っている物語も、100年後にはほとんど滅んでいるだろう。

占星術は、長い時間を超えて生き延び、現在も語られ続けている「強い物語」。神話。

そう捉えると、12星座という「キャラクター」の強度はとても高いのではないか。

学問として体系化されているところも面白いと思う。

12星座は、1番目の牡羊座で「誕生」し、後半の星座になるにつれて人との関わりや社会への意識が出てきて、最後には「消失」し、また「誕生」する

という、人間の大きなサイクルを描いている。

それぞれの星座で人生における「段階」が違うので、性格や価値観も、共通する部分はある一方で明確に区分されている

それをキャラクターづくりの「枠組み」として取り入れることで、「価値観の違う『他者』を描く」という『ファミリーレコード』のコンセプトにも、自然に近づけるはず。

ただ、星座はあくまで架空のキャラクターであり、それだけでは「リアルな他者」には足りないと思った。

そこで、「各星座に該当する実在の人物」の思想や発言を取り入れる。

モデルにする人物は1星座につき1人ではなく、複数人を混ぜる。

これによって、「誰でもないけれど、誰でもある」ような、普遍性と個性を両立したキャラクターにできるのではないか、と考えた。

(各キャラの紹介はこちらで読めます⇒『ファミリーレコード』キャラクター紹介

ちなみに、濱口監督も僕と同じ射手座だったりする。

これで「舞台」と「役者」が揃った。
あとは「物語」だ。

ある日、街を歩きながら音楽を聴いていた。

ウォークマンのシャッフル再生で偶然流れた、『スルツェイ』という曲。

People in the boxというバンドの曲だ。

太陽の光を体に感じ、動き、街や人の姿を目にしながらその曲を聴いたとき、なぜか僕は涙がにじむほどの感動を覚えた。

インスピレーション。霊感のようなもの。

『スルツェイ』の収録されているアルバムは、『Family Record』。

そう、『ファミリーレコード』という小説の題名はこのアルバムから来ている。

全12曲。それが12星座と結びついた。

偶然の一致だけど、何かを感じて『Family Record』の歌詞カードを読む。

謎めいた歌詞だ。

何を表しているかわからない、さまざまなモチーフで構成された独特の世界観。

ネットで調べると、ファンによる歌詞の解釈が出てくる。

『Family Record』の曲名は『1. 東京』『2. アメリカ』『3. ベルリン』といったように、都市の名前になっている。

解釈によると、このアルバムの歌詞は「人類の歴史」を語っているらしい

たとえば、『ベルリン』ではナチスドイツを想起させる「秘密警察」

『旧市街』では、ユダヤ教の安息日を想起させる「長い土曜日を終わらせる為に」

といったフレーズが出てくる。

これだ、と思った。

この歌詞を自分なりに「解釈」「謎解き」して、物語をつくろう。

Peopleの歌詞は昔から好きだった。

意味はわからないけど、何かとても深いことが語られている気がしていた。

だから信じられると思った。

『Family Record』に導かれるように物語を書けば、僕一人では絶対に到達できなかった場所へ行ける。

「人類の歴史」というテーマは、「他者」=「外の世界」を書きたいという小説のコンセプトとも一致する

1曲ごとに場所が変わり、時代も変わっているらしい点も面白いと思った。

時間と空間の超越

それは野田秀樹の舞台の特徴でもある。

本来まったく別々の場所にあるはずの時空間を、一つの舞台上で自由自在につなぎ、切り離し、つなぎ……

その絶え間ない変転のなかに、舞台上にしか成立しえない「世界」が現れては消える。

混ざり合わないはずのものを接続する

現実と虚構のあいだに橋を架けるような作品。

読者に対しても橋を架けたい。

先に書いたとおり、僕にとって最高の作品は『Q』と『寝ても覚めても』になった。

それは小説よりも演劇や映画が「最高」になってしまったということだ。

それなのに自分は小説を書きつづけるのか?

いや、「だからこそ」だ。

自分にとって最高の小説がなくなったなら、自分で書くしかない。

それは自分が満足できるものであると同時に、人が読んでも満足できるものであってほしい。

なぜなら、『Q』や『寝ても覚めても』はそういう作品だから。

文学は取っつきにくいけれど、読みこめば素晴らしい価値があることを僕は知っている。

でも他の表現方法がどんどん発達している現代に、わざわざ「わかりにくい」文学に手を伸ばす人は少ない。

それなのに、文学の世界はずっとその「わかりにくさ」の中に閉じこもっているような印象がある。

現代的なテーマでキャッチ―な「売れている」文学もあるけれど、それらには物足りなさを感じてしまうことも多い。

「人類の歴史」に比べれば、語られていることの広さと深さは「弱い」気がする。

戦争や宗教。僕たちの日常を離れた「人類の歴史」は、現代日本を舞台にした文学に比べると興味を引きにくいし、「わかりにくい」だろう。

でも、だからこそ挑む価値のあるハードルだと思う。

取っつきにくいけれど多くの人が知っておくべきことを、わかりやすく伝える

物語という形で、面白く、共感しながら読めるように。

橋を架ける

そのために役立つのが「キャラクター」だ。

人類の歴史という大きな物語だけでは、共感しにくい。

12星座を元にした、価値観の異なる主人公12人を設定することで、そのうちの誰かには共感できる可能性が高まる

大きな歴史の物語と、キャラクター個人のドラマを重ね合わせて語る。

そういう作劇にしたかったので、『Family Record』の1曲を「1つの短編」として、それぞれに別々の主役を設定した。

12の短編が絡まりあい、全体として大きな1つの物語にもなる、連作短編小説の形をとる。

具体的には、以下のような構成。

第一幕 第一場 日出市(ヒノデシ)
    第二場 雄央州(ユーオーシュウ)
    第三場 黒鐘区(クロガネク)

幕間 楽邑(ラクユウ)

第二幕 第一場 廻古街(カイコガイ)
    第二場 水夏郡(スイカグン)
    第三場 巫下村(フモトムラ)
    第四場 奏領(カナデリョウ)

第三幕 新響都(シンキョウト)

第四幕 第一場 火沸島(カフツトウ)
    第二場 海眠空港(カイミンクウコウ)

終幕 箱庭町(ハコニワチョウ)

(あらすじはこちらで読めます⇒『ファミリーレコード』全体の構成と各話あらすじ

着手してからの経緯、今後の予定

2020年1月ごろから、情報収集を始め、構成や大まかなストーリーを考えだす。

ノート一冊使いきってもまだ足りない。

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(構想ノート。俺以外読めない怪文書)

結局、構想だけで3ヶ月かかる。

これまでの小説は長くても2~3ヶ月で1本書いていたから、とんでもないスケールだ。

2020年4月、執筆開始。

プロローグが書けたので彼女に読んでもらい、次のような感想をもらう。

「まだ本編が始まってないからわからないけど、面白そうだと感じる。

ただ、これまでのあなたの小説には『統一された世界観』や『感性』があったけど、この文章にはそれがない。散らかってる感じがする

小説としてこれで良いのかはわからない」

的を射た指摘だ。

それはある意味、「狙い通り」になっているとも言える。

なぜなら、『ファミリーレコード』は「僕の内的な世界観」から一度離れて、あえて「たくさんの人のバラバラな価値観」で書いてみようとしているから。

ただ、それゆえ「拡散して、散らかってる」印象になると。

書き方の問題なのだろうな、と思う。小説において世界観や感性を伝えるのは、語りの手法、文体だと思うから。

「枠組み」、「コンセプト」、「物語」ときて、「書き方」の検討は漏れていた。

下記がそのプロローグで、後半の人物紹介をちょっと見ていただければわかると思うが、これは小説というより舞台の脚本、戯曲に近い。

小説『ファミリーレコード』プロローグ

このあいだ読んでくださった方からも「戯曲では?」と言われたし、まあそうなのだろう。

ただ、今は書き方まで気を配って書いている余裕がない。

すさまじく大量の情報を整理し、物語の形にしていくだけで手いっぱいだ。

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(参考文献は現在進行形で増え続けている。いったいあと何十冊読まなければならないのか……)

これと同時並行で「書き方」までやろうとすると、破綻すると思う。

ということで、今は第一段階「戯曲としての執筆」、それが終わってから第二段階「小説としてのリライト」をする

第一段階「戯曲としての執筆」は、2021年8月現在、第二幕第四場の『奏領』まで来ている。

全12話のうち、8話。

割と進んできているが、終盤の方が重い話なので大変そうだ。

今のペースで行くと、たぶん2022年5月くらいまでかかる。

ちなみに現在の執筆においても、ただ書くだけではなく変なことをやっている

『ファミリーレコード』は1話ごとに主役が変わる。

僕はこの小説を書きはじめて以来、「その章の主役のキャラクターの星座を演じているつもりで生きている」。

は?」と思ったかもしれない。

つまり、こういうことだ。

たとえば、山羊座が主人公の章を書いているときには、「山羊座なら今どうするかな」と考え、意識的に会社で責任を引き受けバリバリ働いていた。

そしてとても疲れた。山羊座、大変だなあと思った。

その次、双子座が主人公の章を書いているときに、「双子座なら今この決断をするだろう」と考え、会社を辞めた。

書いているあいだは、聴く音楽や読む本も、その章の星座のアーティストや作家のものばかり摂取する。

そうして自分を洗脳し、別人になったと錯覚させることで、主人公により深く没入し、リアリティのある小説を書くことができる

自分の人生を舞台にした演技。

今の僕の人生は、小説のための実験台。道具だ。

正気の沙汰ではないと思ったかもしれないが、完璧な小説を書くためにはこれくらいやらないとダメだ。

特に僕のような凡人は。普通の書き方で、自分の筆力だけですごいものを書くことはできない。

自分の才能に絶望したので、いろいろ犠牲にすることにした。

(いかに僕に才能がないか、というパーソナリティについてはこちら⇒京大卒・元会社員の男は、なぜ「無職詩人」に憧れたのか。

周りの人から見ると、僕は「会うたびに別人のように言うことが変わる」「人生迷走している人」かもしれないが、それも当然と言えば当然。

書きながら別人になっているんだから。

心の中で旅をしているみたいだな、とも思う。

旅も『ファミリーレコード』のテーマの一つ。

さまざまな時代や場所、価値観や人のあいだを旅する。

さて、第一段階が終わったら、第二段階「小説としてのリライト」のスタート。

「他者性」「多様な価値観」がコンセプトなので、章ごとに文体も変えて、相対化を図りたいと思っている。

具体的には、各星座に該当する人物の文体/語り口を模倣する予定。

これも「演技」だ。

『ファミリーレコード』については以上です。

気が早いが、この次に書く小説のことも考えている。

『ファミリーレコード』を書き上げることで、僕は「より多くの人に伝わる小説の書き方」を習得できるのではないかと思っている。

その「戦利品」を引っさげて、元々書いていた「自分の内的な想像世界」に立ち返る。

つまり、こういうことだ。

『ファミリーレコード』は、「多くの人に伝わりそうなテーマ」を、「伝わりそうな書き方」で書く。

次の小説は、「僕にしかわからないようなこと」を、「伝わるかもしれない書き方」で書く。

「僕にしかわからないようなこと」が題材になるため、ハードルは上がる。

ここまで、「『ファミリーレコード』に人生賭けてます」みたいなトーンで語ってきたが、

『ファミリーレコード』は「守破離」で言うところの「守」と「破」までかもしれない

「離」はその次。

『ファミリーレコード』という長い旅を終えた後で迎える、新しい旅立ち=「離」。

もしかしたらそれは、小説という形を取るべきものではないかもしれない。

テキストとRPG(MOTHER2とかゆめにっきみたいな)を組み合わせたゲームもいいかなあ、と思っているし、

ネット上に架空の世界のWebサイト(SCP財団とかバベルの図書館みたいな)を創って、そこにたくさんの物語の断片を投下していくのも楽しそう。

子供から大人まで、いろんな人がその世界にやってきて物語を増やしていく。

現実とは別の神話の世界、それ自体が生きているみたいで、ロマンの塊だ。

僕が死んでも誰かが新しい話を語りつづける限り消えない、永遠の夢の国

あるいは、空想の世界ではなくもう少し「外の世界」「現実」を深掘りする方向も考えている。

『ファミリーレコード』はキャラクター個人の小さな物語もあるけれど、全体としては人類の歴史というマクロな視点で描かれる。

そこから、徹底してミクロな視点の世界を描くことへ転換するのも面白そう。

誰かの「語られない物語」に以前から興味がある。

有名人の人生は伝記として記録されることもあるけれど、多くの「名もなき人」の人生は物語になることなく、その人だけが抱えたまま消えていく

そういう「個人の物語」にフォーカスした作品も世の中にはある。

ただ、それは往々にして「社会的弱者」だとか、「知られていないだけで、発信すれば多くの人の共感を得ることが目に見えている物語」であることが多いと思う。

僕はどちらかと言えばそういう人ではなく、「マジで誰からも興味を持たれてなさそうな人の知られざる人生」を書いてみたい。

なんの変哲もないおじさんや、孤独な老人に密着取材するとか。

孤独な老人だと「社会問題」の枠に括られて、「ただのニュース」として消費される可能性もあるけれど。

そういうことじゃないんだよな。

「消費して終わり」ではなく、もっと「後を引く」「飲み下せずに残る」もの。

既存のカテゴライズではない、本当の意味でまだ「見出されていない」個々の生の面白さや美しさ。

そういうものにも興味がある。


ここまで読んでくださった方がいるかどうかわかりませんが、本当にありがとう。

僕は最近、どうせみんないつか死ぬし、本当は何にも意味なんてないよな、みたいなことをずっと考えていて、それは事実なんですが、

少なくとも『ファミリーレコード』を書き上げるまでは死ねないな、と思っています。

理由とか意味とかどうでもいい。絶対に書き上げる。何かが俺にそれを要求している。

だからあなたも死なないでください。完成したら読んでほしいので。

生きましょう。(雑に終わる)

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