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【エッセイ】娘の髪の毛を切れない母の話

夏がもう、すぐそこまでやってきている。

子どもというのは、なぜあんなに汗っかきなのだろう。
朝起きた瞬間から部屋の中を走り回り、朝食を食べ終わる頃にはもうシャワーをかぶった後かのように髪の毛がべっとり顔に張り付いている。

我が家の娘たちは、産まれた瞬間から病院の看護師さんたちの話題をさらうほど髪の毛が多かった。
あまりに多すぎて、赤ちゃんの頭では必ず凹んでいるらしい大泉門を見つけることが難しかったくらいだ。

2歳になる娘は、前髪以外はまだ切ったことがなく、その後ろ髪はもう腰に届くほど長く伸びてしまっている。
お風呂上がりに、娘も私も汗だくになりながらその長い髪をドライヤーで乾かすたびに思う。
そろそろ髪の毛、切ったほうがいいよなあ、と。

7月からは通っている保育園でプールの授業がはじまる。
15人も在席しているクラスだから、きっとひとりずつドライヤーしてもらえるなんてことはなく、タオルで拭かれてそれで終わりになるのだろう。
プールのあと、お昼ごはんになっても、お昼寝が終わっても、保育園の帰りの会の時間になっても、濡れた髪の毛をゴムで縛られている不機嫌そうな娘の姿が簡単に想像できる。

娘の前髪を切りに美容院に行き「後ろの髪はどうします?」と聞かれるたびに、迷った末、「まだいいかな‥」と言って切ることを先延ばししてきたのは、娘の髪の毛先が無くなると、私と娘の身体的な繋がりがいよいよ切れてしまうような気がして寂しかったからだ。

娘が産まれてきたときに生えていた髪の毛は、私のお腹の中にいたときから生えていたものだ。
それがいまだに娘の頭にくっついていて、命をもらいながらどんどん伸びている。かぴかぴになって箱の中にしまわれたへその緒と違って、私と娘が一心同体だったという証が娘の頭の上でまだ生きているように感じられて愛おしかった。

娘は最近、いわゆるイヤイヤ期に入った。
イヤイヤ期というのは、一説によると、自我の目覚めだと言われている。
いままではパパやママと同一の存在だった自分が、自分という存在として分離し、自我が芽生え、自分の気持やしたいことの主張が強くなっていくらしい。

娘のイヤイヤ期に立ち向かうために、母親として、彼女を自分とは分離したひとりの女性として捉える時期がいよいよ来たようだ。
今週末にでも、私と娘が一体であった最後の証である彼女の髪を、ついにばっさり切りに行こうと思う。

娘の髪の毛へ。
いままで娘と私を、繋いでいてくれてありがとう。
これから娘と私は完全に別々の個体になるけれど、心の何処かではいつまでも繋がっている、仲の良い親子でいれますように。


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