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バカになる勇気「若者の武器は無知であること」


 先週この本を読みました。

 

その中で、「若者の武器は無知であること」というフレーズが出てきて僕はそれに勇気づけられました。


 というのも、僕には理想の教育があって、それに伴う実践をしていく中で「僕みたいな経験ない奴が、チャレンジしていいものか」と不安になることがあります。

 実際それで失敗することの方が多く、周りに迷惑をかけてしまうこともあります。

 でもこの本では、「経験がないからこそ、リスクを感じずにチャレンジすることができる」「よって、無知であることは若者の武器だ」と断定しています。

 確かにそうですよね。僕にもっと経験があって、もっとリスクに対して敏感であればこれまでやってきたようなチャレンジはできなかったかもしれません。

 そしてそれらのチャレンジは、例え失敗であっても「こうしたら失敗する」ということがわかったという意味で、生きる知識として僕の中で残っています。

 「若者の武器は無知であること」

 この言葉を胸に、今後もチャレンジをたくさんできたらいいなって思います。そして、それらのチャレンジを見守り、いざという時には助けてくださる方々に感謝の気持ちをもちながら、チャレンジしていけたらと思います!

また、この本には以下のような言葉も登場します。

常識に対して真面目であるのではなく、自分の思いに対して真面目であれ

 僕本当にその通りだなあって思って。

 僕たちは社会を作る動物であり、そこで生きていく存在ですが、その前に1人の人間です。たった1回の人生しかない人間なんです。なぜ自分の思いより常識を優先しなくちゃいけないのでしょうか?

 このようなことを主張したら、「そんなのわがままだ」「社会が回らなくなる」とおっしゃるかもしれませんが、果たしてそうでしょうか?

 常識に対して真面目であることはある意味では楽です。周りからは一定の賛同をもらえ、安心感があります。でも自分の思いに対して真面目であることはある意味では修羅の道です。自分の思いがあまりにも自己中心的だったり、独りよがりなものであれば、周りから賛同をもらえず、孤独になる可能性もあります。

 よって、自分の思いに真面目でい続けるためには「みんなの想い」「社会のために」「未来のために」という確固たるものが必要であり、周りにそれが伝わらなくてはいけません。また、それが妥当だと証明していかなくてはいけません。

 そう考えると、「自分の思いに真面目である」ことはみんなのため、ひいては社会のためにならざるを得ず、「そんなのわがままだ」「社会が回らなくなる」という批判は妥当性を欠くのではないかと思います。


 僕のことを「不真面目」と評価する人がいます。逆に「真面目」と評価する人もいます。

 前者の人は僕が常識に対して真面目じゃないから、そう言っているのだと思います。後者の人は僕が自分の思いに真面目だからそう言っているのだと思います。最近では、後者の人がめちゃくちゃ増えたように思います。僕はそれがとっても嬉しいです☺️

 これからも自分の思いを大切にして、真面目に生きていきたいと思います!時には思いを修正しながら、自分なりの最適解を見つけられるようにですね!



 ここまで読んでくれて、ありがとうございました!

 

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