仮説検証と自己分析の癖について

プライベートはそうでもないし、人間関係においてもそういう脳みそは働かないのだが、仕事のような、グループで物事を決めていく場合、自分の感じた感覚を共有する際に、自分の感覚を分解して論理的に説明しようとするくせがついている。

これは大学院の時に叩き込まれたものだ。『あ、これめっちゃカッコいいな。なんで自分はカッコいいと思ったんだろ。黒くてテカってて高級感があるからかな・・・』みたいなのをパパっと考える。そして『これ、素材感に高級感あってカッコいいと思います』と言う。

これが結構社会に出てから訳に立っている。自分の感じた感覚を説明できるからだ。勿論完全じゃない場合もあって、その場合は相手に突っ込みを受けて、そこからその感覚を対話的に掘っていったりする。

大学時代、これを何故教え込まれたかと言うと研究というものでは『仮説』が大事だからだ。基本的には研究というものは『仮説と検証』の繰り返しである。実験と言われるものは要するに検証のことだ。

研究においては観察→仮説→実験→結果→考察というプロセスで文章を書いていくのが一般的で、結果と考察が次の観察と仮説の下地になる。

よくプロトタイピングとかティンカリングとか『やってみないと判らない』系の話、要するにボトムアップ系の発言をしている割に僕は普段の思考も仮説検証型でトップダウンなんで矛盾してないですか、と今日言われた。

これが矛盾しているように見えるのはスコープの切り方の話でしかないからだ。トップダウンにしろボトムアップにしろ、基本的には先ほどの研究プロセスのようにサイクルがある。仮説と実験がセットだ。PDCAでいうとPlanとDoだ。

なのでボトムアップかトップダウンかはそのタイミングで見たサイクルの話でしかなくて、鶏卵の議論に近い。その差は実はあまりない。

じゃあトップダウンだけでいいじゃん、なんでボトムアップ必要あるの、という話になるんだが、それもシンプルで『納得がいってないだけでプランはあるでしょ』ということだ。やってみないと判らない、と言ってるのは『特定の何かやってみると何かが判ると仮説を立てている』のだ。問題はそれを実行するほどの価値があるかどうかやらずに判断しようとまごまごしているからだ。

そんなものはやってしまえばいい。予算が無ければ少ない予算でそれをテストできる実験を計画すればよいだけなのだ。

触りだすうちにみるみるうちに手前のプランがくっきりしてきて、もっとクリアな実験ができる。プランがサービスの企画に、実験が社会実験になる、そんな瞬間も往々にしてある。自分はそう思っている。動くことと考えることがペアである以上に大事なことはない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?