過ちを認める覚悟と議論について

ここ数年、ジェンダーの話が活発で、さらにここ最近はBLMに始まりどこかの芸術家が国籍差別をしたといったニュースがSNSに流れてきて、差別について向き合って考える機会が増えてきた。

が、僕は正直なんというか、この流れについていけていない。情報はさらっているつもりだが、コミットのし方が見つからない、というか、取りつく島がないというか、そういう印象だ。兎に角関わり方を考えあぐねていた。

スコープを滅茶苦茶細かく切ったら、あるいは事例ベースで話せばあるいはできることもあるかもしれない。実際そういった動きをしている個別の事件は多い気がする。個別のそういったプロジェクトの中には賛同のボタンをポチっと押したりもした。

が、基本この手の『差別』というのは強烈に我々の生活に強烈に根付いている。『差別』は文化を醸成する1因子であり続けてきたし(勿論肯定したいわけではない)、教育にも無関係ではないし、社会で学んだあらゆるものに差別は紛れ込んでいる。

なので差別に無関係な人間なんて殆どいない。もっというと差別されるだけの人も居ないし差別するだけの人もほとんど居ない。我々は息をするように差別をしているし、同時に差別されている。これが僕の世界認識だ。

当事者として、差別を感じた立場として発言をすることはとても重要だし尊重されるべきだ。が、それと『差別のない多様性のある社会を作るのにどうすれば良いのか』は別のスキルだ。

差別の話はとても難しい。差別した側は正しいわけではないのは勿論だが、かといってじゃあ全て差別された側の言う通りするべきでもない。どちらも当事者でしかないのだから、社会がたどり着くべき未来はどちらでもない第3の選択肢の延長であり、もっと別の多様性のある方向性だろう。つまり議論が必要だ。

議論をできる相手かどうかを見極める。つまり相手の発言に合わせて言葉の内容を、お互いの考えていることをすり合わせつつアップデートできるかどうかが重要になる。柔軟性だ。極論をすれば自分の発言を振り返って差別的なニュアンスが含まれていた、と謝れるぐらいの度量の人かどうかが凄く重要な気がしている。インタラクティブであるということだ。

差別問題は禅に似ている。涅槃(悟り)と偽涅槃の区別のように意見の区別が難しい。玉ねぎのように階層構造になっていて、問題の奥に差別、問題、差別・・・とイテレーションがある。一枚目の差別と問題のペアで判った気になってもいけない。根本にはもっと大きい問題がある。

なので知識人というか『賢い人』でも評価が真っ二つに分かれているように見える。『間違ったことを言わない人』としてキャリアを積み上げてきている人の発言はこのシチュエーションではあまりワークしない。この手の問題ではご神託のようなコメントは存在しない。『べき論』を唱えることは議論しないと宣言するのに等しい(SNSの特性もあるんだろうけれど、残念なことにマイノリティのアクティビストにもこのタイプは多い)。

一方で積み上げ型の知識とでも言うんだろうか。スクラップ&ビルドを繰り返す、『発言を見返して自分の間違いを認めて修正をかける』タイプの人間の言ってることは信用できる。信用できるというよりかはができる。そう、話が重要なのだ。発信ではない。理解というのは非常に時間のかかるプロセスだ。特に当事者にまつわる議題は特に。なので謝罪も受け入れないような人はこういった当事者の問題に対する根本的な前進を目指していないようにも見える(勿論度が過ぎているやつもある)。

といったことをテッド・チャンの『息吹』を読んでいて気付いた(そういえばテッド・チャンには『理解』っていうタイトルの作品もあったな)。自分は差別の問題ではなく、差別する側もされる側も一方的な当事者の意見を発するだけで話し合いのステップに移らないので発言することがなかったのだな、と気づいた。

『何を悠長な・・・』と思われるかもしれない。が。自分にとっては切実な問題だった。SNSは構造的に一方的な発信メディアであり、議論に向かない。ここでできるのは意見交換でも話し合いでなくて一方的な発信だ。差別を受けた属性に紐づくグループを代表して、グループ外の対象に対して、あるいは同じグループの同胞に向けて発信をする。

当然主語は大きくなる。我々とか国とかマイノリティとかマジョリティみたいな個人じゃない名詞が散見される発言の出来上がりだ。そして受け取り側に勝手にラベルを貼る。お前は差別をしている、あるいは差別されているのに黙って差別を受け入れている、と。

だからSNS上で『今この状況で声を上げないのは悪だ』という発言に対して強烈に違和感を感じる。

このデカい主語が飛び交う世界で個人で発言してまともに議論できるのか?

勝手に貼られまくったラベルをまず否定するところから面倒始めるのか?

それで何を生むつもりなのか?

それをあらゆる人に強制しようとするお前は何だ?

属人生や当事者性を切り離す議論というプロセスを経ず、ただひたすらに態度表明して何になるというのだ?

不当だと感じたことには声を挙げて反対したいが、僕はどっちに加担するのもご免だ。本質を掴んで次の手を考えたいし、未来をちゃんと見据えたい。

今回も例によってすげえ叩かれそうな文章が出来上がった気がするが、今の意見はそんな感じだ。勿論今後、誰かと議論して変わったり、深く考えることで何かに気づいたり、個別のケースに関して解像度が変わっていくかもしれない。

僕も謝ることにそれなりに抵抗がある。が、それでは自分の許せる自分になれない。超えていかないといけない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?