自分を「見てくれてる」人を探そう
はじめまして、NPO法人 三徳で理事をしています、赤堀といいます。
三徳では、書類まわりの仕事を主に担当しています。直近では、NPO法人の立ち上げに関する書類を作って、役所に申請したりしていました。
また、自分で会社を持っていて、肩書としては社長でもあります。
そういうとすごく立派な人のように思えるかもしれませんが、昔は全然仕事ができない時期もありましたし、子どもが生まれたタイミングでうつ病になってしまったこともあります。
会社といっても、社長と従業員1人でやってる会社ですし、今後、なにかの拍子にいきなり倒産してしまうことだってありえます。
でも、いまは将来に対して不安はあまりありません。
それは、人との出会いが財産として自分のなかにあって、なにかあっても自分を助けてくれると実感しているからです。
このnoteでは、ぼくの今までを振り返りながら感じてきたこと、大事にしていきたいと思っていることについてお話したいと思います。
ぼくの仕事について
まず、ぼくの仕事についてお話します。
ぼくは建築業の施工管理の仕事をしています。施工管理というとピンとこない人も多いでしょうが、現場監督といったら分かりやすいですかね。
例えばどこかのマンションを○月×日までにリフォームすると決まった時、僕の会社に施工管理の依頼がきます。納期からやるべきことを逆算して、どんな職人さんにどのタイミングで何の仕事をしてもらうか決めて、実際に職人さんに連絡して現場に入ってもらいます。
施工(工事)の間は、現場をまわって職人さんたちに次の動きを指示したり、段取りなどの調整をやっていきます。
テレビでいうとディレクターさんみたいなイメージかもしれません。そういうとカッコよく聞こえますが、実際は現場で職人さんと一緒に実務をやったり、職人さんのアシスタントをやってることが多いです。
施工管理の仕事が楽しいかと言われると、実は楽しいと思ってません 笑
嫌いじゃないですし、この仕事を続けていきたいと思ってますけどね。
でも、世の中で働いてる大人って大体はそうだと思います。
求人広告を見ると、キラキラした人たちがやりがいもって働いてるイメージを持つかもしれません。
ですが、実際はそんなことはないし、キラキラ楽しく仕事をしなきゃいけないって思うのって疲れるじゃないですか。
そりゃ楽しく仕事ができるほうが良いですし、そんな人生を選んでいって欲しいですけど、そうじゃなくてもいい。そんな大人にならなくてもいい。
それくらいでいいと思ってます。
適当に生きた学生時代から、社会に出て通用しなくなった
ぼくは学生時代には特別なことは何もしてなくて、なにごとも要領よくやってた方だと思います。
学校の成績は良くはなかったですが、数学だけは成績上位に入ったりしていましたし、サッカーを高校まで続けてて、強豪校で最後の大会でレギュラーとして出場もできました。
大学ではバイトしかしてなくて、単位も卒業論文もうまく手を抜いてこなしていました。
ところが、社会に出て全く通用しなくなってしまいました。
ぼくは会社を興す前に2社経験していますが、どちらもリフォーム会社で、営業の仕事をしていました。
営業といっても、リフォーム会社の営業は施工管理を兼ねているので、自分で案件を取って、そこから現場の管理まで全てやっていました。
営業も施工管理も、コミュニケーション能力が求められる仕事です。
もともと内向的で、小さいころは家でレゴで遊ぶようなタイプだったので、関わる人たちとの良いコミュニケーションがとれず悩んでいました。
営業成績も上がらなくて、コミュニケーションの本を読んで勉強したり、成績優秀な先輩に教えてもらったりしましたが、それでもなかなか上手くいきませんでした。
原因は色々あったと思いますが、大学を卒業する時に「これからは適当にやらず、真面目になる」と決めてしまったのがよくなかったと思います。
例えば仕事でミスをしたとして、今までの自分なら適当に消化してしまってたと思いますが、真面目になった自分にはそれができませんでした。
結果、同じミスをしないことを意識しすぎて、別のミスをしてしまうようなことが多くありました。
根が真面目な性格だったら違ってたんでしょう。
でも、適当な性格だったものを急に真面目にしようとするから、うまく馴染まなかったんだと思います。
ある日突然、うつ病に
リフォームの営業を始めて10年くらい経ったころ、体に異変がおきました。
お客さんと商談中、いきなり片耳にフタをされたような感じになって耳鳴りしはじめました。
また、体の左半分だけしか汗をかかない、めまいがして歩けなくなるといった症状も出てきました。
家にいる時はふつうでも、靴をはいて会社にいこうとすると動悸がして、まったく仕事ができない状態になってしまいました。
状況が深刻だったので、会社と相談して、しばらく施工管理だけやる形に変えてもらいました。
でも、それもうまくいきませんでした。
デスクに座ると頭が混乱して、自分が何をしたらいいかわからくなってしまう。車を運転していると急に涙がではじめる。
さすがに仕事ができる状況ではなかったので、精神科に行って薬をもらい、2ヶ月ほど会社を休職しました。
ですが、それでも状況は変わらず、精神科の先生も具体的にどうやったら治るかについてはほとんどアドバイスしてくれず、薬を処方するだけでした。
父のうつ病と引きこもり
じつは、うつ病に関しては、いつか自分もなるかもしれないと思っていました。
ぼくの父も過去にうつ病を発症しており、母からうつ病は遺伝しやすいらしいから気をつけるようにと言われていたからです。
父はぼくが小学生から中学生くらいの頃までうつ病になり、家に引きこもっていました。
だから、ぼくの小学校〜中学校くらいまでは、父の記憶がほとんどありません。家にいるのかいないのか分からないような状態が、ずっと続いていました。
ぼくがうつ病になった時、ちょうど娘が生まれたばかりでした。このタイミングで、ぼくが父のように何年も家にいるわけにはいきません。
ーーこれは自分でなんとかするしかない
腹をくくって、うつ病を自力で治す方法を探していきました。
体調管理に関して色々と調べて、睡眠・食事・メンタルケアなど、改善すべき点を自分で見つけていきました。
正解がない分野ですが、いろんな公的データを調べたりして、試すべきことを試していきました。
結果、いまは仕事に支障がないレベルまで回復しています。
寛解(完治)とはいかないですが、どんな時に調子が悪くなって、その時にどう対処すればいいかがわかるようになりました。
人との出会いが自分の人生を変えてきた
僕の人生を振り返ると、人に影響を受けることが多くありました。
それは必ずしもいい出会い、いい人だけではなく、反面教師になる人もいます。
うつ病に関しては父が反面教師になってくれましたし、学生時代のバイト先で出会ったひとたちの中にも「こんな大人になりたくない」と思うような人もいました。
逆に、ぼくのやってることを見てくれている大人もたくさんいました。
例えば学生時代にバイトしていたパチンコ屋の店長さん。僕が辞めるときに飯に誘ってくれました。人に聞いた話では、いままでそんな事してきてなかったそうです。
高校のサッカー部の監督には嫌われていましたが、最後の大会ではレギュラーとして出してくれました。
リフォームの会社で働いてた時も、決して成績優秀じゃなかったぼくの仕事をみてくれて、独立してから仕事をくれる方もいます。
そういった出会いがあったから、自分がどう進むべきか決めることができて、困ったときも何とかなると思えるようになりました。
三徳では、児童養護施設の子どもにアルバイトを通じて社会で生きていける力をつけてもらいたいと思っています。
ですが、これは技術や経験だけの話じゃないです。
どんな大人になりたいか、どんな大人になりたくないかを感じられるようになってくれれば、それが社会で生き抜く力になります。
また、自分のことを見てくれる、何かあったら助けてくれる大人と出会うことも重要です。
そういった存在がいることが安心感になります。
いま、三徳の活動として、4名の子どもがアルバイトとして働いています。
まずは彼らが、三徳と関わってよかったと思える環境を作っていきたいと思っています。
こういった活動をするうえで大事なのは、いきなり大勢の人を支援しようとせず、まずは目の前の数人を支えていくことだと思っています。
これは仕事も同じで、いきなり会社を変えようとしてもうまくいきません。まずは自分の後輩や自分のチームから良くしていって、徐々に範囲を広げていかないと、理想論を唱えるだけで終わってしまいます。
自分にできる範囲で環境を変えて、いろんな大人がそれをやっていくことで、いつか大きな動きに発展できたらと思っています。
[文/代筆広報S]