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病室とオムツと私

育った街を見下ろす

私の生家は、病院の隣です。
小さい頃からその病院を見上げて育ってきました。
これまで何度か改築がありましたが、そのたびに高層になっていきました。
現在は7階建てです。私にあてがわれた病室はその最上階でした。
これまでずっと見上げて育ってきたその病院から、私の育った街を見下ろし、甍の波を目で追うとは思っていませんでした。
生命保険頼みの贅沢な個室から廊下に出ると、母校である中学校と通学路が見えました。長い長い坂道を登って通った思い出がよみがえります。


また反対側にあるコインランドリーに行くと、母校の小学校の運動場や体育館が眼下に見え、校庭のすぐそばを走る線路には、まぼろしの蒸気機関車が走っていました。


全てがモノクロに見え、懐かしさと共に、もの悲しく映ったのは曇天のせいだったのでしょうか。部屋に戻り、持ち込んだ本「生物と無生物のあいだ」を冒頭から読み始めました。
のんびりできるのも今日だけです。明日はいよいよ手術なのです。


全身麻酔

前日に下剤を飲み、目が覚めると浣腸が待っていました。10分くらい我慢をするよう言われたのですが、10秒しかもちませんでした。
全身麻酔は2度目で、前回は18歳、虫垂炎の手術のときでした。その記憶はもうほとんどありません。
全身麻酔は意識がなくなるので、そのまま覚めなくても私にはわかりません。きちんと覚醒するのかと言う不安が頭をかすめました。「2-3時間の手術なら晩御飯には間に合うな」わざと現実的なことを考えながら手術室に入りました。

しかし、そのまま、天に召されたときに妻子が困るだろうと、書き留めてきた遺書代わりのノートを自宅の机の上に置いてはきました。

目が覚めた時は病室でした。看護師さんがギャジアップ(手動式でした)をしてくれて、ベッド上で夕食をとりました。まだ朦朧としていて後から考えると一品食べ残していました。もったいないことをしました。翌日の朝まではベッド上安静だと告げられました。点滴が3本ほどぶら下がっていてバルンカテーテルが入っていました。そして、おむつがあててありました。文字通り繋がれた状態の私がいました。QOLという言葉は吹き飛んでいました。


「生物と無生物のあいだ」

福岡伸一先生の本は、生や死を畏怖をもって考える時にとても落ち着ける本です。私なんかには到底理解できない分子生物学がご専門で、ミクロの世界から「生命とは何か」を探求しておられる先生です。「生命は機械ではなく、流れである」「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」等々、素人からすると摩訶不思議で、しかし、そこに真実があると思わせてくれるフレーズがポンポン飛び出します。だから、落ち着けるのかもしれません。

この本を携えてきたのは、もう一つ理由がありました。
このところ、「生活とは何か」について言明したくて、時間を費やしていました。入院でたくさんの時間があるだろうからと福岡先生に同道していただいたのです。短期目標は、生活の目標です。しかも、本人(や家族)が主体的にかかわる目標です。また、ニーズも「生活全般の解決すべき課題」とされています。

ケアプランの形骸化を回避し、血の通ったものにするために、わたしたちは「生活とは」という問いに答える必要があるのです。そのヒントがこの本にはあるという「勘」が働きました。そして、わたしの勘は、「当たり」に近づいたのです。


バルンの留置と生活

留置されたカテーテルの違和感や痛みについて、医療スタッフが訊ねてくれます。しかし、表現が難しいのです。出血や排せつの頻度などは、答えることができても、その違和感の言語化に苦しみました。試しに、次のように言ってみました。「おしっこを我慢しなさいと言われて、頑張って我慢しているのだけれど、いつの間にか排泄しているという感じです」と。伝わらなかったと思います。

言語化できれば症状が軽くなるというわけではないのですが、たぶん自分自身は落ち着けるのだと思います。つくづく、わたしたちはロゴス(理性)の世界に生きているのだなぁと感じました。そして言語だけでは伝わらない「自然」というものが確かにあるのだなぁ。それが生活なのだとも思いました。

さて、ケアプラン。よく考えると、自分でも行っていないことを生活の中で他者に求めている典型でもあります。多くの方が気づいておられます。「生活は因果律では語れない」ということを。しかし、それは「でたらめ」とは違います。別の「律」に支えられています。
「因果律では語れない」という謂いを成立させるためには、次の(最低でも)3点に言及する必要があります。
1. なぜ因果律では語れないのか
2. 因果律以外の律はあるのか
3. 因果律以外の律はどのようにすれば抽出できるのか


エントロピー増大の法則

福岡先生の著書では、必ずといっていいほど「エントロピー増大の法則」の話が出てきます。この世の事物は、どんなものでも秩序から無秩序に向けて時間が流れるというものです(違っていたらご指摘ください)。大宇宙の法則ですから逆らえません。インフラ、制度、組織、机の上、マイカー、そして生命。生命は、エントロピーが最大限になったとき「死」を迎えます。わたしたちは、そのエントロピーに抗うようにして暮らしています。

自分の身体は自分のものではなく、半年もたてば、自分の身体を構成している原子はすっかり食べたものと入れ替わっている。この入れ替わるという「流れ」が生命なのであるという話もワクワクします。

福岡先生の著書は、読めば読むほど、「生活」との共通点が見えてきます。
「生活」とは、物としての動であると思えてきます。
是非、一度手にとってみてください。

人間は、エントロピー増大に抗うためにどんな手段を講じたのでしょう?
事例の中の(特に)短期目標を検討しながら、この謎に迫っていこうと思います。


イラスト:なつめりお様 あろがとうございます。

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