栗原康『現代暴力論』“検閲”読書会(2017.3.26、4.2)その8

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その7」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2017年3月26日と4月2日の2回に分けておこなわれた、栗原康の『現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す』(角川新書・2015年)を熟読する読書会のテープ起こしである。
 栗原康の『現代暴力論』の現物を入手して、途中ことわり書きが挟まるように、例えば「第一章・黙読タイム」などのところでまず当該の章を自分でも黙読してから読み進む、というのが一番タメになる読み方である。

 第8部は原稿用紙17枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその6枚分も含む。

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 (引き続き「第五章 テロリズムのたそがれ」をめぐっての議論)


 これじゃあギロチン社の人たちはまるで栗原康の同類

外山 あと、この章で描かれてる、「ギロチン社」っていう“大杉虐殺”に報復しようとする大杉派の大正アナキストたちの残党グループについてだけど、この人の書き方では単なる“ゴロツキ集団”にしか思えないよね。とくに予備知識のまったくない読者にはまったく共感を得られないだろうと思う。
 「さいしょ、中浜(引用者註.“ギロチン社”の創設者・中浜哲)は自殺することを考えていた。でも、それじゃあ、ちょっとつまらない。どうせ死ぬのだから、せっかくだしわるいやつでもやっつけてみようか。カネでもモノでも名声でも、たくさんあつめたやつがエラいというのが支配者であり、そいつのせいで、みんなが苦しんでいる。だったら、その支配者をぶっ殺して、自分もつるされて死ぬことにしよう」(244ページ)なんていう、“人を殺して自分も死刑になりたかった”ぐらいの幼稚な動機で“テロリスト”になって、しかも実際にどうなるかといえば、「まずなにをしようか。とりあえず、軍資金がない。カネをためよう。中浜たちは、リャクという手段をとった。リャクとは略奪のリャクのことで、金持ちをおどしてカネをもらいうけるということだ。ガンガンやって、カネをかせいだ。わーい、カネだ、カネだ。じゃあ、これで決起かというと、そうはならない。よく考えてみると、テロリズムをはじめたらいつ死ぬかわからないわけで、人生に悔いがのこらないようにしておきたい。ふと気づいたら、みんなカネをふところにいれて、遊郭にむかっていた。すぐにカネがなくなった。またリャクをやって、カネをかせぐ。また遊郭へとむかった。そしてまたリャクをやった」(248ページ)というのが実態で、それを、結局はメンバーの大半が“大杉の仇討ち”なんか計画段階で露見して次々と逮捕される中で唯一“惜しいところまで行った”と云えなくもない古田大次郎の遺書を引用して、「ようするに、わたしがテロリズムをやったのは、万人にたいする愛のためだというのである。復讐とか、そういうネガティブなものではない」(254ページ)とか論評してみせたって、多くの読者には説得力ゼロですよ。
 もちろん栗原康もギロチン社を全面的に肯定しているわけではなく、むしろ総論としては批判的なことを多く書いてはいるけど、ほとんど否定的に描くしかない彼らの行為から何らか肯定的なものを少しでも救い出そうとしながら、それには完全に失敗してる。これでは読者のほとんどはギロチン社の人々にただ嫌悪感しか持たないと思う。
 で、この栗原康が“アナキズム研究者”を自称するくせに浅羽通明の『アナーキズム』(ちくま新書・04年)はどうも読んでないらしいことを先週、「第三章」の記述から推理して批判したでしょ。実はその浅羽の『アナーキズム』にもギロチン社についての記述に多くを割いた章があって、そっちではまだしも、“とことんダメな奴らだが、ダメなりに妙に魅力的な人々”として描かれてるんだよ。“保守派の論客が書いたアナキズム論なんか読めるか”的な偏狭なスタンスは捨てて、ちゃんと読んでせめて“書き方”を勉強しろ、と云いたくなる。
 この栗原康のような描きようでは、ギロチン社の人たちはまるで……栗原康の同類みたいじゃないか(笑)。栗原康とは違ってイケイケの連中ではあるけど、要は自分の“ダメさ”に開き直ったにすぎないゴロツキ集団のようになってしまってるよ。

東野 栗原康がもし“「あばれる力」を取り戻す”とこういうことになるのかっていう……取り戻さないでほしい(笑)。


 “アナキズム”に興味がない人にその魅力を伝えなきゃ

A女史 ……結局この本、最後まで何をどうしたいのか分からないまま終わってしまった。この人にとって“アナキズム”って結局何なのか、最後までよく分からん。そもそも誰に向けてこんな本を書いてるのかがやっぱり分からない。

外山 そこは先週からツトに疑問視されてましたな(笑)。“ごくフツーの人たち”は、こんなロクでもない“アナキスト集団”に共感しないだろうし……。

東野 いや、“「あばれる力」を取り戻した”人たちにはきっと共感されるんです(笑)。

外山 だって多くの人に“「あばれる力」を取り戻そう!”と呼びかけるために書いた本のはずでしょ? つまり多くの読者は“まだ取り戻してない”ことが前提のはずだ(笑)。なのに多くのそういう読者を、こんなの読んだら“やっぱりテロはよくありませんね”って、栗原康が批判的に書く“警察と仲良くやる”今ふうの反原発運動やシールズなんかのほうにむしろ追いやっちゃうよ(笑)。

藤村 “3・11以降”のそういう運動が共通して掲げてる“極左排除”みたいな方針に疑問を持ってるような人たちには、この本はウケそうな気はする。

外山 うん、そうなんです。それで実際、シールズに反感を持ってシールズの10分の1ぐらいの規模で同時期に“就活反対デモ”とかやってた“バブル”っていう学生グループ、“3・11”以前は“ゆとり全共闘”とか自称してたような人たちには“栗原ファン”が多いみたいだしね。

藤村 あるいは東京で“りべるたん”ってシェアハウスをやってる人たちとか……。

外山 そうそう、彼らがまさにその元“ゆとり全共闘”の“就活反対デモ”の人たちなんですよ。つまり“りべるたん”住民向けに書かれた本、と(笑)。……もちろん、最近あちこちで持ち上げられてる人なんで、冗談抜きに云えばそれなりに多くの読者がいるんだろうけど、“共感”を得ているわけではない気がするんだよなあ。だってこんなスタンスの本に共感できないでしょう、普通。

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