中大ゲリラ祭・縁起(90年代中央大学学生運動史)

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 中央大に92年から97年まで在学し、いわゆる〝赤C(あかしー)〟つまり本来はブント(共産主義者同盟)系だったものが70年代から80年代にかけて次第に事実上ノンセクト化していった勢力の一員として活動した、72年生まれの樹宇崇二氏に、『全共闘以後』刊行直後の2018年9月17日に、引き続き〝全共闘以後〟の運動史を探るために敢行したインタビューである。
 中大には、93年から09年まで毎年(初期は年に何度か)、「ゲリラ祭」という一種の〝自主学園祭〟が公式の学園祭とは別に開催されていたそうで、樹宇氏もその立ち上げに関わった1人であるという。

 通常のコンテンツと比較して短いものであるし、分割せず公開する。
 原稿用紙換算44枚分、うち冒頭15枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)にはその15枚分も含む。

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外山 まずは生まれ年の確認を……。

樹宇 72年です。

外山 それは早生まれとかではなく?

樹宇 ええ、11月ですから。

外山 ということは、中央大学に入学するのは91年になるのかな?

樹宇 1浪してるんで、92年ですね。

外山 高校時代はどこで過ごすんですか?

樹宇 千葉県松戸市です。

外山 その頃は、すでに政治的なことに関心はあったんですか?

樹宇 決定的に関心を持つようになるのは、高1の時に、担任が現代社会の先生で、1学期は原発問題、2学期が冤罪の問題、3学期が……何だったか忘れましたけど、やっぱり何かの問題を取り上げて……。

外山 あ、現代社会の授業で、1つのテーマを3ヶ月ぐらいかけて掘り下げるようなことがおこなわれてたわけですね?

樹宇 そういうことです。その最初の頃の授業で、「昨晩の深夜ラジオでエア・チェック(ラジオを録音すること)した曲があるから、ちょっと聴いてくれ」と云って、ガチャッとテープ・レコーダーを再生するんですよ。流れてきたのがRCサクセションの「ラヴ・ミー・テンダー」で、なかなか良い先生だなあと思った覚えがあります。

外山 先生が流したんだ?

樹宇 ええ。RC自体は知ってたんですけど、その曲はもちろんその時に初めて聴きました。

外山 高校入学は88年ということになるから……ああ、まさに発売中止騒動が高1の1学期ということになりますね(『全共闘以後』で詳述したとおり、88年6月、RCサクセションのニュー・アルバム『カバーズ』に、「ラヴ・ミー・テンダー」をはじめ〝反原発〟のメッセージ性が明からさまな曲がいくつか含まれていたため、原発メーカー・東芝の子会社である東芝EMIがビビって発売中止としたが、すでにサンプル盤が各ラジオ局などに出回っており、気骨のあるDJは盛んに流しまくった)。その高校は私立ですか?

樹宇 いや、県立です。

外山 へー、県立高校にまだそういう先生が……。

樹宇 東北大を出たという人でした。

外山 〝68年〟あたりに〝何か〟やってたっぽい先生?

樹宇 そうなんでしょうね(笑)。当時のぼくはそういうことをあまり知りませんでしたけど。

外山 高校時代からすでにロック系だったんですか?

樹宇 ええ、基本的にはロックの人間です。だけど常に〝両軸〟というか、ロックと同時に政治的なことにも関心がありました。

外山 〝ロック〟のほうの目覚めはいつ頃なんですか?

樹宇 中学校の半ばぐらいか……いや、中3かな。もちろんブルーハーツとか、パンク系で、セックス・ピストルズとかも聴くようになりましたし、あとはゴチャゴチャにビートルズから何から、いろいろ聴いてました。

外山 結構〝王道〟路線ですか?

樹宇 そうですね(笑)。ちょっと変わったのが好きな友達もいて、原爆オナニーズとかを聴かせてくれたりもしましたけど。

外山 松戸なら、東京のライブハウスなんかにも来ようと思えば来れるでしょ?

樹宇 ええ、高校に上がってからは東京にも来てました。

外山 〝政治〟のほうは、高1の現代社会の授業で感化されたりはしつつ、具体的に運動に関わったりするわけではなかったんですか?

樹宇 なかったですね。外山さんが関わってたような反管理教育の運動とか、そういうのは全然知らなくて、周りにもいませんでした。唯一あったのは、TBSラジオか何かの公開録音で、〝反管理教育〟的なテーマだったか、高校生を集めて〝自由に話そうぜ〟みたいな企画があって、よく分からないまま友達に誘われて行ったことがあります。

外山 伊藤悟とかいう人(53年生まれ。いったん高校教員となるも〝管理教育〟を批判して解雇される。90年代半ば以降はLGBT系の活動家)が、千葉で〝反管理教育〟の運動もやりつつ、ラジオのパーソナリティも務めてたように聞いてますけど……。

樹宇 その時はローカル局ではなくTBS自体の企画だったと思います(樹宇氏によれば、TBSラジオの深夜番組「スーパーギャング-ティーンズ・ダイヤル-」の企画で、パーソナリティは当時TBSアナウンサーでのち民主党政権時代に内閣審議官となった下村健一だった、とのことだが、下村が同番組の火曜パーソナリティを89年4月〜9月に務めた後、翌10月からそれを引き継ぐフェミ系活動家・北村年子のパーソナリティ時代に伊藤悟はたびたび出演、というより86年10月〜87年3月の同じく火曜のラサール石井、87年4月〜89年9月の金曜のマンガ家・石坂啓、そして89年10月〜90年3月の北村と、伊藤は単に出演者であるばかりでなく同番組のリベラル派パーソナリティと二人三脚的なスタッフだったようだ)。

外山 まあ80年代の末になると、〝管理教育〟は完全に流行の社会問題でしたからね。

樹宇 〝管理教育〟で思い出すのは中学時代の〝授業妨害〟ですね。例えば先生が黒板に向かってて、生徒に背を向けてるときにボールだの消しゴムだのを投げるんです。生徒の〝連帯〟があったということなのか、断続的に一斉にやる。それで2人の先生がココロの調子をこわして休職になりました。そういうのが中2まで続いてましたね。〝教師への抗議〟が含まれてもいたんでしょうが、〝理〟のある運動ではなく、単に暴力的な〝直接行動〟で、まったくひどいもんでした。
 ……あと、高校生の頃に昭和天皇から今の天皇への代替わりがあって、即位の礼だったか大嘗祭だったか(いずれも90年11月)、反対のデモがあるというので見に行ったことがあるんですよ。友達がどこかでそういう情報を仕入れてきて、一緒に行ったんです。まず宮下公園で集会をやってて、中核派だったんですけどね。

外山 その頃は当然、〝中核派が云々〟とか、そういう知識はまったくないんでしょ?

樹宇 ええ、全然知りません。中核派の集会だったというのも、大学に入ってから知る話で……。で、宮下公園に入ろうとするんだけど、合成皮のライダース・ジャケットとか着てたし、明らかに中核派の人間ではないのが分かるから、歩道橋のほうからも階段のほうからも、入れてもらえないんですよ。

外山 あ、警察が阻止線を張ってて……。

樹宇 ちょっと粘ってみたんですけどね。しょうがないから公園の外で待ってたら、やがてヘルメットの集団が公園から出てきて、デモが始まるわけですよ。ジグザグをやって機動隊と揉めながら、〝皇居突入!〟とか云ってるから、それはすごいと思ってずっとついて行ったんです。東京の地理もよく分かってないから、皇居なんか結構遠いってことも知らなくて、そうこうするうちにデモ隊は小さな公園にシューッと入っていって、また集会をやってそれで解散してしまう。何だよ、と。

外山 突入しねえのか、と(笑)。

樹宇 高校時代の印象深い思い出です(笑)。

外山 その友達というのは、ビラか何かをどこかでもらってきたのかな?

樹宇 そうなんでしょうね。

外山 あるいは当時なら、街頭に中核派のビラとかも貼ってあったしなあ。

樹宇 うん、ありました。

外山 電柱とかガード下の壁とかに、〝革共同政治集会〟みたいなビラがベタベタと。中核派に限らず、あのテのビラは最近とんと見かけませんね。違法だからって遠慮するような人たちではないはずだが……。

樹宇 まあそういう経験もあったから、〝過激派〟的なものに対して〝面白そうだな〟っていう興味はもともとあったんですよ。で、いろんなとこに貼ってある、〝桐島聡〟(東アジア反日武装戦線)の指名手配ポスターとかを剥がしてきて、自分の部屋に貼ったりしてました(笑)。

外山 大学に行けば学生運動があるっていうイメージは持ってたんですか?

樹宇 うっすらありました。

外山 中大には望んで入ったの?

樹宇 実はそうなんです。というのは、実家が松戸なんで、へたに都心にある大学に進学しちゃうと実家から通わなきゃいけないことになりそうでしょ。

外山 なるほど! むしろ〝筑波化〟した大学に行きたい、と(笑)。

樹宇 そうそう(笑)。そうすれば「家からは通えないよ」って親に云う口実になると思って……。それと、昔の中大の闘争の話とか読むと、勝ってたりして(66年の〝プレ全共闘〟期の学館闘争、68年の全共闘期の学費闘争とも学生側の完全勝利に終わる)、なかなか面白いんじゃないかと思ったのもありました。

外山 そういう話を高校生か浪人生の時期にすでに知ってたの?

樹宇 ええ、知ってましたね。

外山 おぼろげな知識ではあるんでしょうけど、それはどこで得たんですか? 模索舎とかに行ってたわけじゃないんでしょ? 『フォー・ビギナーズ 全学連』とか?

樹宇 いや、模索舎もフォー・ビギナーズもまだ知らなかったです。……やっぱり音楽が好きだったんで、パンクの歴史から始まって、背景とかまで含めて、ロックの歴史をどんどん遡っていくんですよ。そうすると〝スチューデント・パワー〟がどうこう、すごい時代があったんだなと思って、それでいろいろ読んでるうちに、どこかで入ってきた話だと思います。地元の図書館とかですから、そんなにマニアックなところまでは調べられないんですけど。

外山 高校生ぐらいだと、まだネットもない時代だし、情報源はほんとに限られてるよね。

樹宇 そうそう、ほんのちょっとの情報なんですよ。

外山 それで妄想を膨らませて……(笑)。

樹宇 あと、お茶の水まで松戸から1本で行けたから、よく行ってたんです。そしたら明治大学の校舎の周りに〝いかにも〟なタテカンが出てるでしょ。あ、まだ続いてるんだ、と思うじゃないですか。

外山 そういう高校生もたまにいるんだから、やっぱり無意味なタテカンでもとりあえず出しとくべきだね(笑)。……で、浪人を経て中大に進学する、と。その当時の中大はどういう状況なんですか?

樹宇 入ったサークルがノンセクトの……もともとは中大社学同で、つまりブント系の系譜のサークルなんですけど……。

外山 叛旗派とかの流れを汲む……。

樹宇 そうですね。だけど自分自身の主観的にはほとんど完全にノンセクトでした。

外山 京大とかと同じように、もともとブント系だったのが時代が下るにしたがってノンセクト化していったような……?(つまりノンセクトは普通なら、もしヘルメットをかぶるとすれば黒ヘルなのだが、関西とくに京都では赤ヘルのノンセクトが主流だったという話。紙版『人民の敵』第34号参照)

樹宇 ええ、〝赤C〟っていう。

外山 その〝C〟というのは?

樹宇 チューダイの〝C〟です。

外山 いわゆる〝竹内ブント〟(明大と中大に拠点を持っていたミニ党派。明大で革労協の恐怖支配の〝下請〟を務めていたことで悪名高い)というのとは別なんですか?

樹宇 別です。竹内ブントは「オリーブの会」っていうサークルがそうでした。

外山 ぼくはそこらへんがよく分かってないんです。

樹宇 竹内ブントというのはかなり突然変異的に生まれた党派だと思いますよ。サークル棟では、オリーブの会のボックスはすぐ近くにあったんですけどね。ウチは「全学部祭実行委員会」というサークルでした(〝全学部サイ実行委〟ではなく〝全学部マツリ実行委〟と読む)。……中央大は、移転したのが80年頃なんです(78年から80年にかけて文系学部の多摩移転がおこなわれたようだ)。

外山 樹宇さんが入学した頃はもう、多摩に通うことになってるんですね?

樹宇 そうです。で、多摩に移転した時点で昼間部の自治会は停止されてて、「全学部祭実行委員会」というのは、基本的にはその再建を目指す団体という位置づけなんです。

外山 あ、学園祭の実行委員会ではないんだ?

樹宇 ええ、学園祭は「白門祭」というのが一応ありました。それとは関係のない話で……。

外山 ノンセクトが学園祭実行委員会的なところに蝟集してたという話を、80〜90年代の埼玉大や熊本大の例として聞いてるんで、そういう話なのかと思いました。

樹宇 夜間部には自治会があるんです。そこは民青が握ってる。その民青に、ぼくと同じ頃に〝木下ちがや〟(シールズに介入して共産党寄りにさせた〝優秀な〟活動家として知られる)というのがいましたよ(笑)。

外山 同世代なんですね?

樹宇 木下君のほうが1歳上かな。〝全学部〟のボックスのちょうど真下に、民青の夜間部自治会のボックスがあるんです(笑)、上の階と下の階で。

外山 樹宇さんの時代もやっぱり、〝新左翼ノンセクト〟ということなのであろう樹宇さんたちと、民青というのは対立関係にあるんでしょ?

樹宇 一応はそういう図式に〝なってるということにはなってる〟んですけど、結構フツーに話したりもしてましたよ。1部の人は……。

外山 こだわってる?

樹宇 というか、面白がってる感じでしたね。「民青死ね!」とか云って、酔っぱらって床をドーンと蹴ったりして(笑)。だけど、ぼくは2部だったんです。

外山 あ、〝一部の人〟というのは〝昼間部の人〟という意味か。

樹宇 だから本来ならぼくは民青系の自治会のほうに行っててもおかしくないんですけど、あんまり授業にも出てなかったし、たまたま長髪の、見てすぐだいぶ年上だと分かるような人と……。

外山 7年も8年も通ってそうな……(笑)。

樹宇 そうそう(笑)。その人が同じ授業を受けていて、どういうわけかぼくに声をかけてきて、「ロックとか好き?」って訊かれて……。

外山 それは樹宇さんも明からさまにロックっぽい格好をしてたってことですか?

樹宇 そうだったかもしれない。で、「はい、好きですよ」って感じで話した流れで、「ぼくのいるサークルに来ませんか?」って誘われたのがきっかけだったんです。

外山 入学して間もないぐらいの時期ですか?

樹宇 そうですね。その人も2部だったんですけど、結局その人が、そのサークルのリーダー格なんです。

外山 実際には何回生ぐらいだったんですか?

樹宇 その時点で6回生でした。それから1年間は一緒に過ごしました。

外山 7回生にはならずに卒業していく、と?

樹宇 ええ。

外山 じゃあ中大の運動というのは、一応は60年代、70年代から途切れることなく続いてたわけですか?

樹宇 そうなんでしょうね。学校には来なかったけど、『情況』系の人なんかもいましたよ。学外の行動があった時なんかに、打ち上げには来てたりしました。長いテーブルで一緒に飲んでる中に、なんかオッサンが混じってるなあって感じで(笑)。『情況』は古賀(暹)さんっていう指導者がいるでしょ。あの人の家をツーバイフォーで建てるっていうんで、それを手伝いに行った人がいたり、そういう妙な〝動員〟もありましたね(笑)。

外山 古賀さんなんかの世代は、当時は40代半ばとかなのかな?

樹宇 それぐらいですかね(古賀は40年生まれで、92年だと51、52歳)。

外山 いつのまにか自分たちが20歳ぐらいの頃の彼らの年齢を超えつつあることが、最近ちょっとショックなんですよ(笑)。

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