絓秀実氏との対談(2015年3月3日)・その1

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 日本を代表する知識人・絓秀実氏との対談である。2015年3月3日におこなわれ、紙版『人民の敵』第7号に掲載された。
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 ( )内は紙版『人民の敵』掲載時にもともとあった註、[ ]内は今回入れた註である。他のコンテンツもそうだが、[ ]部分は料金設定(原稿用紙1枚分10円)に際して算入していない。
 第1部は原稿用紙換算20枚分、うち冒頭7枚分は無料でも読める。ただし料金設定はその7枚分も含む。

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 (電池が切れかかってることに気づかず、最初の30分ほど録音できておらず)

 ……津村喬批判という吉本隆明の言説は、当時のある種の左翼にとって一種の〝解放〟ではあったんですよ。

外山 倫理的強迫からの解放ですね。

 そうそう、今で云うPC的なものからの。そのあたりでおれは、外山君の立場とも違って、吉本の云うことはよく分かった上で、つまり華青闘告発以降の新左翼に流通し始めた〝反差別〟の言説が吉本の云うように〝建前〟でしかないじゃないかってことは重々承知の上で、だからといってそれに〝本音〟を対置すればいいという問題ではないんだ、と云い続けなければならない状況だったと思う。こういう整理には、やや後知恵も入ってるかもしれないんだけどさ(笑)。当時はおれもまだどっちかというと吉本の云うことが分かるという立場だった。なにせ、津村の周りの反差別派のモラリズムには耐えがたかったしね。でも、活動家の感覚として、そこはあえて吉本批判が必要だとも考えていた。……で、呉智英のことは、一緒に別冊宝島で『保守反動思想家に学ぶ本』とか出したこともあるぐらいだし、以前からよく知ってる仲ですよ。彼の反差別運動批判についても把握してたけど、それは違うなと思ってた。呉智英のは、やっぱり吉本的な批判を拡散するものでしかない。それがやがて浅羽(通明)や大月(隆寛)という継承者を生み、さらにはやがて大量の〝ネトウヨ〟を生み出していくわけでしょ。イロニーとして、そういう言説が提示されてる間はまだいいんだけど……。

外山 うん、呉智英の段階ではまだ〝イロニー〟ですよね。

 だけど浅羽や大月になるとイロニーがなくなっちゃうんだ。原発問題にしても、呉智英は「原発賛成」を云ってて……。

外山 そうでしたっけ。

 88年の〝広瀬隆ブーム〟の時。

外山 それは〝原発の是非はともかく広瀬隆はオカしい〟という批判ではなく、ですか?

 どちらかちうと、原発そのものを肯定してたと思うよ。そもそも吉本だって原発肯定なんだし、原発を否定することは先進資本主義そのものを否定することにつながるっていう。

外山 それはたぶんある種のエコロジー的、というより要するにスピリチュアル的な……(笑)。反原発運動の中に常に一定数いる、そのテの連中に対する批判ですよね。

 そうですね。しかし、呉智英からは反原発は出てこないでしょう。

外山 そういうものへの苛立ちが高じて、勢い余って原発そのものまで肯定してしまうって感じですよね、吉本は。

 呉智英もまさにそういう感じだったと思う。「サルでもわかる」云々と。

外山 ありがち、と云えばありがちなんですよ。最近でも、サブカル系のセンス良さげな人に限って、反原発運動のあまりのダサさに辟易して、反感をつのらせた結果としてむしろ「原発賛成」みたいになっちゃう人が多い。

 そもそも原発に反対することだって、イロニーなくしては不可能なはずなんです。

外山 つまりこういうことですかね。反原発運動を批判するのなら、そのイロニーのなさを批判すべきであって……。

 そうそう。

外山 「反原発」そのものを批判するようではちょっと困りますよね(笑)。

 それは、差別問題と同じでしょう。たしかに反原発の側にも問題はある。だから、反原発派が原発を批判する、その批判の仕方を批判すべきなんですよ。『反原発の思想史』では違う書き方をしたかもしれないけど、リスクやコストの側面で原発を批判したって仕方ないんです。そんな批判はいくらでも反論されちゃうんだから。

外山 相対的な問題にすぎませんからね。

 そうじゃないところで原発批判をしなきゃいけない。

外山 絓さんの云ってることをちゃんと理解できてるのかどうか自信がないんですが、「イロニーなくして原発に反対なんかできないはずだ」っていうのは、どういうニュアンスなんですか?

 例えば福島で実際に事故が起きたわけだけど、「でも結局あの程度のものでしょ?」って云い方はいくらでも可能なんですよ。それは原発肯定派の側からするイロニーですよね。それに対して反原発の側も「そんなことは分かってるんだよ」ってことを前提にしなきゃいけないと思うんです。そのイロニーを超えたレベルで〝正論〟を云わなきゃいけない。「資本主義そのものに反対だから原発にも反対なんだ」とか、あるいは「原子力という技術の体系そのものに無理があると思うから反対なんだ」ってふうに、単なる目先のリスクやコストの議論を超えたところから、どーんと云わなきゃダメですよ。だってしょせん原発なんかなくなりませんよ、資本主義を廃絶しないかぎりは(笑)。で、現時点では資本主義を廃絶しうる展望なんかどこにもないでしょ。「それでも資本主義に反対なんだ」と云うしかない。当然、議論では勝てません(笑)。だから反原発を云う側もそれを分かった上でそれでもあえて云うっていう、ある種のイロニーが必要になってくるんです。まあ、あまりイロニーばかりだというのも、困るんですが。……だけど呉智英が反原発運動を、主に広瀬隆をターゲットに揶揄してた時は、なんだかんだ云っても日本の原発は安全だよ、ってことだったと思うんです。それが事故を起こしちゃったわけだ。そうなってみると呉智英はさすがに池田信夫みたいに「でも結局あの程度の事故でしかなかったでしょ?」とは云えないんだよね。吉本はもうボケてたから云えたんですけど(笑)。池田信夫や曾野綾子は「福島の事故で人は死んでないじゃないか」って云うわけです。それに対して〝なんリベ〟(なんちゃってリベラル、もしくは、なんとなくリベラル)派は、「いや、死んでるんだ」とか云う。

外山 相手のレベルに乗っかっちゃってるわけですね。

 そんな議論に意味ないんだよ。

外山 浅羽通明が当時やってた反原発運動批判は、原発そのものについては肯定も否定もしてない感じでしたけど……。

 そりゃそうですよ。そもそも原発問題にリアリティがなかったんだもん、遠いチェルノブイリでの事故なんだから。あれは原発の問題というより〝ソ連の問題〟なんだってところに議論を落とし込むことも可能だった。日本の原発は安全だと呉智英や浅羽は思ってて、〝対岸の火事〟に何を熱くなってんだ、という批判だったでしょ。

外山 そうですね。ご存じのとおり、ぼくも一時期、浅羽言説にハマってた時期があって……。

 外山君たちの世代には多いみたいですよね(笑)。

外山 それはやっぱり浅羽の左翼批判が反学校論の文脈だったからだと思うんです、ぼくの場合。

 そうなんだよなあ、浅羽は。

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