栗原康『現代暴力論』“検閲”読書会(2017.3.26、4.2)その5

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その4」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2017年3月26日と4月2日の2回に分けておこなわれた、栗原康の『現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す』(角川新書・2015年)を熟読する読書会のテープ起こしである。
 栗原康の『現代暴力論』の現物を入手して、途中ことわり書きが挟まるように、例えば「第一章・黙読タイム」などのところでまず当該の章を自分でも黙読してから読み進む、というのが一番タメになる読み方である。

 第5部は原稿用紙15枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその6枚分も含む。

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 (引き続き「第三章 生の拡充」をめぐっての議論)


 “お仲間”のアナキズム論しか読まないアナキスト

外山 さらに同様の追及を続けると、162ページから164ページにかけてまた大杉の文章の引用があるでしょ。その直前の、“これから引用しますよ”って導入の部分に、「さいきん飛矢崎雅也さんの『現代に甦る大杉榮』をよんでいて、直球で大杉の米騒動論といえるものがあることに気づかされた」と書いてあります。しかし実はこの大杉の文章のまさにこの部分は、ちくま新書の浅羽通明の『アナーキズム』(04年)に引用されてるんです(笑)。1度でも通読すれば、かなり印象に残る引用の仕方だったと思う。
 つまり浅羽の『アナーキズム』さえ読んでれば、何も「さいきん飛矢崎雅也さんの」ナントカってマニア本をわざわざ読むまでもなく、とうの昔に「直球で大杉の米騒動論といえるものがあることに気づかされ」ているはずなんです(笑)。しかしこの栗原康は、プロフィールに「専門はアナキズム研究」とあるような、しかも職業的研究者でありながら、浅羽の『アナーキズム』は読んでないってことを、ここで露呈させちゃってるんだね。
 ではなぜこの人は浅羽通明の『アナーキズム』を読まないのか? そりゃ浅羽が“保守派”つまり右側陣営の論客と見なされてる人だからでしょう。それに対して、ぼくは飛矢崎雅也って人の名前を今日初めて見たけど、どうせ栗原康のお仲間の“アナキズム友達”の1人なんであろうことは容易に想像がつきます(笑)。つまり自分の同類が書いたマイナーな高い本は頑張って読むけど、自分とは違う立場の人間が書いた“アナキズム論”になんか一切興味がない、もちろんわざわざ目を通さなきゃならない義理もないしそんな価値も認めない、ということです。云っとくけど浅羽の『アナーキズム』なんて、超メジャーな本ですよ(笑)。

薙野 ちくま新書のやつでしょ? 読んではいないけど、私でもその本の存在は知ってるぐらいですもんね。

A女史 今の説明でいろいろ納得できた。普通やっぱり、“自由”とかに憧れて大杉栄に惹かれたりするものじゃないですか。でもこの人からは“自由”って感じを受けないもんね。堅苦しいというか、閉じてる感じがする。

薙野 右翼にもいろいろあるのにね。

外山 浅羽の『アナーキズム』も、べつに“アナキズム批判”の本ではないんです。むしろアナキズムにものすごく好意的な本で、浅羽自身はアナキストではないけれども、アナキストたちの思想や生きざまを大いに味わいつつ、こういうところは面白いし、こういうところには限界を感じる、というふうに浅羽なりに真摯に吟味・検討してる本なんですよ。
 しかし前回(後註.栗原『現代暴力論』の前におこなった読書会。紙版『人民の敵』第29号参照)の森元斎の『アナキズム入門』にも、浅羽の本なんか読んでないだろうことが明らかな記述がいろいろあって、つまり彼らは総じて、“同じ穴のアナキスト”同士で“アナキズム”をあれこれ論じ合ってるんでしょうな、っていう舞台裏が丸わかりなんです。

A女史 閉鎖的なんですね。

外山 閉鎖的な環境におり、かつそのことに何の疑問も持ってない。にも関わらず、反体制運動が“もう1つの秩序”になってはならない、みたいなことを云う。総合的に判断すれば、栗原康がそういうふうに云うのも、単に従来のアナキズムがそういうことを盛んに云ってきたのを、単に教条的に受け入れて口真似をしてるにすぎないに違いありませんよ(笑)。

A女史 やっぱり“学校の先生”みたいな人だ。

外山 うん。つまり栗原康の頭の中に存在する“正しいアナキズム”を、この本でも“布教”してるだけ

薙野 たしかに、私なんかでも知ってる程度の“アナキズムの本”を“専門のアナキズム研究者”が読んでいないというのは考えられない、あってはならないことですよ(笑)。

A女史 “学校の先生”なのに……。

外山 「専門はアナキズム研究」って堂々と書いてある(笑)。浅羽はアナキストではないけど、だからこそ、“アナキストでない立場の人間からはアナキズムがどう見えるのか”っていう貴重な資料でしょう。マルクス主義者によるアナキズム批判の本ならいくらでもあるだろうけど、浅羽はそういう立場でもないんだからさ。なかなかないよ、アナキストでもなく左翼ですらない人が、批判的にではなくアナキズムを熱く論じた本なんか。なぜ読まないのか(笑)。自分と違う立場の人間の目には自分の立場はどう映ってるんだろう、というのはべつにアナキストでなくても、普通は気になるでしょう。仲間うちの本なんか、どうせ何を書いてそうか大体見当つくんだから、後回しですよ(笑)。

A女史 外部がないというか、“他者”がない人ってことですよね。

外山 “アナキズム”とかについて一番語る資格がないタイプ(笑)。

D嬢 ……言動が一致してませんよね。

外山 そんなこと17歳の女の子から云われたんじゃ、アナキストとしての面目丸つぶれだ(笑)。


 自己承認欲求のツールとしての“アナキズム”

C女史 120ページの8行目から、「ことばをつかえるようになったり、なにかスポーツをやって上達したり、友だちができて、いろんな遊びをおぼえたり、はたまた恋をしてみたりと、なんでもいいのだが」云々とありますけど、そこらへんの“リア充”学生みたいな凡庸なことを云ってますよね。

外山 いや、これは例えだからさ。フツーの人でも、そんなふうに人生に新しい展開が起きると高揚感に包まれるでしょ、と。それと同じように、“暴れる”ことも楽しいですよ、というふうに話を持っていこうとしてるわけです。こういう箇所からはやっぱり、この人は、そういうことに人生の喜びを見出してるような“ごくフツーの人たち”を、“アナキズム”の圏域に誘惑したいんだろうという意図を感じさせられますけど、でもそれには失敗してるんだよな。

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