反共ファシストによるマルクス主義入門・その10

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  「その9」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。
 第10部は原稿用紙18枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその6枚分も含む。

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   14.ヘーゲル左派

 「世界史とは自由の意識の進歩である」というのもヘーゲルの有名な言葉である。

 そして、これ(引用者註.「自由」)がすでに実現されたというのがヘーゲルである。しかし、この論理から、まだ歴史は終っていない、なぜなら真に「自由」が実現されていないからという論理が出てくる可能性がある。事実、初期マルクスをふくむヘーゲル左派はそう考えた。いうまでもなく、それは歴史に究極の目的(終り)があるという考えにもとづいているのであって、ヘーゲル左派においては歴史の終り(目的)が共産主義なのである。フォイエルバッハは自らを共産主義者と呼んでいた。
 (柄谷行人「歴史の終焉について」1990年/『終焉をめぐって』1990年・所収)

 「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というのもまたヘーゲルの有名な言葉だ。「精神」は進歩し、精神の優れた性質である「理性」によって求められるものが現実化することで「歴史」も進歩する、と考えたヘーゲルがそのように云うのは当然である。なおかつヘーゲルによれば、それはプロシアにおいて完成されているのだ。

 マルクスの思想はヘーゲルの弟子たちの分解のなかで形成された。ヘーゲルが「精神」という希望をたくした現実のプロイセン国家が、進歩的な思想を弾圧するなかで、ヘーゲルの弟子たちは、左派と右派に分裂する。国家が非理性的であると感じられたとき、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というヘーゲルのテーゼはその前半と後半が切りはなされてしまった。「現実的なものが理性的なのだ」と、あくまでプロイセン国家のなかに理性を見ようとした人びとは保守派になり、いまはまだ現実とはなっていないが、批判的な理性こそ現実的なのだと考える人びとがヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)をかたちづくったのである。マルクスはこの青年ヘーゲル派の一員として出発した。
 (小阪修平『イラスト西洋哲学史』JICC出版局・84年)

 ヘーゲルの保守性を批判し克服しようとする“ヘーゲル左派”の代表的な思想家がフォイエルバッハ(1804〜72)である。マルクスはヘーゲルの死後にヘーゲル哲学に目覚めた、いわゆる“没後の門人”だが、フォイエルバッハはベルリン大学で全盛期のヘーゲルの講義を聴いて熱狂した“直弟子”である。

 ヘーゲルの体系を基本的に受け入れながらもルードヴィヒ・フォイエルバッハは、人間存在の矛盾をつぎのように定式化した。すなわち、人間は、知性や善意、愛などを理想的な仕方で備える存在を望むあまり、神を発明した。神は人間の発明品だというのである。ところが、人間は、神の意に添うことによって救いを求める。こうした、自分が作りだしたものによって思想や行動を縛られ、自分らしさをかえって失ってしまう状態を「自己疎外」という。疎外とは、自分の行動や価値判断の制御を奪われた状態である。神を発明することによって、自分で自分を疎外しているのが人間だ、というのがフォイエルバッハの主張だ。自己疎外という考えは、のちのマルクスやフロイトにも引き継がれる。
 (貫成人『哲学マップ』

 「疎外」もまたヘーゲルあるいはマルクスの哲学にとって重要な用語の1つである。

 哲学用語としてはそもそもヘーゲルが用い始めたが、ヘーゲル哲学においては「疎外」に決して否定的なニュアンスはない。自身の想念を理性的に認識し、対象化して把握することがヘーゲル哲学における「疎外」である。「ヘーゲル哲学では、弁証法的な自己対象化活動こそ人間の本質なんだから、疎外を解決するとかしないとかいう課題は生じえない。ヘーゲルにいわせれば、疎外は、生じることにより解決されている。あるいは、弁証法的な自己発展と自己完成のために、疎外現象は生じる」(笠井潔『ユートピアの冒険』毎日新聞社・90年)ということになる。芸術的な創作活動も、学問的な叙述も、ヘーゲル的に云えば“自らの内にあったものを対象化し外化する”「疎外」である。しかし“「神」という観念の疎外”に抑圧的な社会の一因(主因?)を見いだしたフォイエルバッハをはじめ、ヘーゲル左派の青年思想家たちは「疎外」を否定的なキーワードとして使用しはじめたわけだ。

 宗教批判の側面を濃厚に帯びたフォイエルバッハの哲学は「唯物論」とされている。「唯物論」の対義語は「観念論」であり(正確には「唯心論」であり、唯心論と観念論とは別物であるとも云われるが、ここでは“古典的なマルクス・レーニン主義”の語法に従う)、典型的な観念論であるヘーゲル哲学から出発したフォイエルバッハは、やがてその対極にある唯物論に至ったのである。観念論と唯物論との対立は、人間社会の根本的な動因を物質的なものと見るか精神的なものと見るかという対立である。人間精神の「弁証法的」な展開・進歩をこそ歴史の主動因と見るヘーゲル哲学は典型的な観念論である。少し先走るが、マルクスは経済構造の「弁証法的」な展開こそが歴史の主動因だと考えた。マルクスはフォイエルバッハの唯物論に強く影響され、唯物論の立場に立つのである。

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