『全共闘』(18)

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 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その18」は原稿用紙換算28枚分、うち冒頭13枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその13枚分も含む。

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(第1部 全共闘以前 第2章 草創期の左翼学生運動 2.東大新人会)


 二水会

 むろん九月には、新入生の中から新たに新人会に加わってくる者もある。この言わば〝二期生〟たちの中心を成したのが、「二水会」の面々で、具体的には三輪寿壮、嘉治隆一、河西太一郎、林要の四人である。林要は、すでに赤松克麿の徳山中時代の同志として登場した。
 これらの人々もまた、以後それぞれに名を成していく。林はマルクス経済学者となり、二三年から同志社大の教授を務めながら、二六年から二七年にかけてヒルファーディングの『金融資本論』の翻訳を刊行したり、改造社の〝マルクス・エンゲルス全集〟(二八〜三五年)の訳者陣に名を連ねたりしていたが、三六年に思想問題で大学を追われ、三八年には執筆できる場所もなくなって、戦時中は農業をして暮らしたという。敗戦後は愛知大、関東学院大の教授となっている。
 河西もマルクス経済学者となる人物である。林と同様、戦時下で一時大学を追われるとはいえ、四一年の時点ですでに立教大の経済学部長であり、敗戦後また同じ地位に就くし、五二年には高崎市立短期大学(現・高崎経済大)の初代学長も兼ねるようになる。
 嘉治は(一時やはり満鉄調査部に勤めた後)朝日新聞社に入り、敗戦直後に論説主幹となるなどジャーナリストとして大成した。
 しかし何といっても三輪寿壮である。一高・東大を通じて岸信介(や〝民法学の権威〟となる我妻栄や後述の蝋山政道)と首席の座を争った秀才で、卒業後は(まずは例の星島二郎と片山哲の中央法律事務所で)弁護士として労働争議や小作争議(農民運動)を支援していたが、やがて二五年の普通選挙法の成立後に活発化する労働者政党の組織化に際して、麻生久らと共に中心的な役割を果たす一人であり、急進派と穏健派の争いで離合集散が繰り返される中、やはり麻生と共に〝中間派〟として革新勢力の統一に努める。三七年に初当選して以来、(大政翼賛会でも要職に就いていたため)公職追放されていた敗戦直後の一時期を除いて、五六年に死去するまで衆院議員だった。東京裁判では旧友であり政治的ライバルでもある岸信介の弁護を引き受けたという。敗戦後はもちろん(?)社会党右派に属し、岸と計らって〝二大政党制〟の実現を目論んで、五五年、岸は〝保守合同〟を主導して自由民主党の結成を、三輪は(右派に属しながらまたしても〝中間派〟的に振る舞って)左右にほぼ別個の政党として分裂していた社会党の再統一を、それぞれ実現したが、その直後に死去してしまったわけである。訃報に接した岸は、「これで政権を渡す相手がいなくなってしまった」と悔しがったと伝えられる。ともかく三輪は、〝五五年体制〟確立の一方の立役者となるほどの〝大政治家〟だったと言ってよかろう。
 それぞれ事情があるのだろう、林と三輪は赤松一八九四年、河西は九五年、嘉治は九六年の生まれだが(なお岸信介も九六年生まれである)、揃って一高出身である彼らの東大入学は一七年九月のことだ。一高・東大で彼らの一年上の先輩に又木周夫(のち実業家として活躍)と日高信六郎(のち外交官として活躍するが、登山家としても知られる)がおり、「日高、又木、三輪はあいついで一高全寮委員長をつとめた間がらであった」という(「『新人会(前期)』の活動と思想」、以下しばらく同)。
 一高を卒業すると、林・河西・嘉治の三人は又木の家で共同生活を始める。日高も同居人であったという。三輪はやはり一高の(さらには福岡の名門・修猷館の)、しかしこの一七年に東大を卒業しているからもっと上の代の、守島伍郎(のち反ドイツ派の外交官となりソ連との休戦交渉に尽力、敗戦後は弁護士に転身して東京裁判での広田弘毅の弁護人も務め、四九年から一期だけ自由党の衆院議員にもなる)という別の先輩と共同生活をしていたが、又木邸にも足しげく通った。彼らは又木邸を「柏風寮」などと称し、毎月第二水曜日には「二水会」と称する、おそらくは〝天下国家〟などを熱く語り合う研究会を開いていた。
 そこへ一八年の暮れ、つまり新人会結成直後、赤松が、やはり徳山中時代の仲間で当時まだ二高在学中であった前出の荘原達を伴って、〝柏風寮〟の林を訪ねてくるのである。もちろん〝オルグ〟であろう。〝研究〟志向の柏風寮・二水会の面々は、実践を志向する新人会の活動に当初あまり乗り気にならなかったが、翌一九年夏、「又木、日高が卒業し、先輩の守島は外交官として外国に行くことになり、柏風寮は解散され、二水会も開けなくなった。そこに赤松の再度の熱心な勧誘があり、三輪、嘉治、河西、林の四人はそろって新人会の本部[例の元・黄興邸]に入」る。

 三輪らが本部に入った時には、佐野も本部を去っていたが、麻生、佐野の本は沢山残されていた。赤松は卒業して『解放』の編集をしていたがまだ本部にいた。[本部で共同生活をしている]三年[最上級生]は波多野と平の二人のみで、宮崎と細野は近くの自宅から本部に通っていた。佐々は滅多に本部にあらわれなかった。村上は病気療養のため八月末に故郷鹿児島に帰っており、二年では新明、門田、山崎がいた。門田と山崎は赤松、宮崎とともに亀戸、日暮里[例のセルロイド工組合の支部が結成されていた]をかけめぐり新人労働同盟を作るのに奔走していた。このような時に四人が本部に入ったのであった。

 自然、二水会の面々が新人会の主力となっていく。だが同時に、「新人会は発足以来、まず麻生、佐野らの水曜会メンバーの指導のもとに生長し、麻生の友愛会本部入りの後は赤松、宮崎の指導の下に活動がすすめられた。しかしそのなかで赤松、門田、山崎などのような労働運動への積極的参加の方向を歩もうとする者と、二水会メンバーを中心とする学問的研究に主なる関心を持つ者との二つの傾向が次第にはっきりと分れて」くるのである。
 ……が、この調子で〝東大学生運動史〟を詳細に追ってもキリがない。以下、とくに重要なエピソードだけ拾っていこう。


 白蓮事件

 二〇年三月半ば、宮﨑龍介が新人会を除名されている。その前段として一月、総合誌『解放』の編集主任が、赤松から宮崎に交替したという事情がある。その一月の末、女流歌人〝白蓮〟こと柳原燁子の原稿を受け取るため、九州に赴いた宮崎が、夫ある白蓮とそのまま恋仲になってしまうのである。大正デモクラシー期のそれとしては、〝白蓮事件〟は、大杉栄が正妻と愛人二人との四角関係に陥り、愛人の一人だった(東京朝日新聞の記者で、〝フェミニズムの先駆〟たる青踏社の論客でもあった)神近市子に刺されて重傷を負うという一六年の〝日蔭茶屋事件〟と並ぶ、あるいはそれ以上の一大恋愛スキャンダル事件と言ってよい。

 柳原白蓮の恋などといっても、今の若い人にはピンとこないかもしれない(略)。白蓮はこの恋愛事件の前から、世に最も知られた女性の一人だった。まず、名門柳原(前光)伯爵家の姫として生まれた美貌の歌人としてよく知られていたのだが、彼女にはもう一つのスキャンダルがあり、それで人の口の端によく上っていた。白蓮は、十六歳で結婚したあと故あって離婚し、家に戻っていたのに、二十六歳のとき、日本有数の大金持といわれた九州の炭鉱王、伊藤伝右衛門(五十二歳)のもとに、金で買われるようにして(結納金二万円)嫁いでいった。伊藤は目に一丁字もない無学の坑夫上がりの男で、男っぷりがいいわけでもない。それに対して、白蓮は美貌と才気煥発を絵に描いたような女性で、ハキダメに舞い降りたツルそのものだった。伊藤伝右衛門は、彼女の歓心を買うために、炭鉱のある飯塚町[福岡県筑豊地方]に大邸宅を建て、福岡[の中心市街区]にも、銅御殿と呼ばれた豪華な別邸を建て、温泉地の[大分県]別府にも別荘を持たせるなどして大歓待した。この金にあかせての大歓待それ自体が当時の新聞雑誌でスキャンダラスに書きたてられていたところにもって、彼女が突然、たまたま知りあった七つも年下の学生と出奔してしまったのだから、大騒ぎにならざるをえなかった。しかも、その出奔の仕方が異常だった。夫伝右衛門と連れ立って上京し、日本橋の定宿にしばらく泊ってから、夫だけ九州に帰し、自分は宿に戻らず姿を隠してしまったのである。それからは連日の大報道で、やがて真相がつきとめられ、宮﨑龍介とのなれそめ以来の大恋愛物語が現在の週刊誌なみの熱心さで大新聞に報道されたのである。
(立花隆『天皇と東大』)

 この〝駆け落ち〟は、宮崎が新人会を除名されて一年以上後の二一年十月の事件である。立花隆も書くように、それはすぐさま(姦通罪が存在した当時、処罰の動きをかわすため、実は宮崎側から先手を打って、家同士の思惑で望まぬ結婚を二度も強いられていた白蓮の境遇を、〝女性の人権〟の問題への焦点化を狙ってのリークで)朝日新聞によってスクープされ、まんまと世間を騒がせるのだが、この〝不倫〟の噂は、宮崎の周囲つまり新人会の内部では、ごく初期の段階で多くが聞き及ぶところとなっていた。
 当時むろん一般的に、現在とは比較しようもないほど、〝不倫〟はまさに人の道を外れた行為と見なされた時代である(なにしろ姦通罪さえ存在したわけだ)。まして新人会は、そもそも基督教青年会などというピューリタン道徳の牙城のような集団をその基盤の一つとして成立しており、実際この時期まだ〝キリスト教社会主義〟的な思想に拠るメンバーも多い。しかもその上、非キリスト教的な、例えばすでにマルクス主義に拠るメンバーの目から見ても、白蓮など〝華族出身の大ブルジョア夫人〟以外の何者でもないのである。
 宮崎は孤立する他なく、じっさい先述のとおり二〇年三月に除名されるに至るのだが、宮崎と縁を切るということは、その斡旋で本拠としえていた広大な旧黄興邸からも撤退しなければならなくなるということでもある。五月に入ってようやく駒込動坂町の小さな借家に本部を移すが、四人で住むのがやっとの規模で、赤松克麿・門田武雄・山崎一雄、新明正道がそこに入り、卒業間近だった波多野鼎・嘉治隆一・河西太一郎・三輪寿壮・林要はこれを機会に共同生活から離脱した。平貞蔵はすでに赤松と意見対立して本部を出ていたという。七月、新人会本部は同じ駒込の上富士前の、もう少し広く八、九人は住める借家に移された。
 ちなみに宮崎はその後、六七年に先立たれるまで白蓮と添い遂げている。宮崎が結核で病床に伏している時には、白蓮が文筆で生計を支えたという。心配された姦通罪の適用は、(リアルタイムではその事実は〝タブー〟としてほとんど報じられなかったようだが)白蓮が大正天皇の生母・柳原愛子の姪であり、つまり〝今上〟大正天皇の義理の従妹にあたることからも、やんごとなく処理することが求められたし、伊藤家・柳原家が話し合って事態の鎮静化に努め、むろん処罰も見送られた。


 〝実践派〟と〝学究派〟

 また二〇年初頭の時点に戻って、この頃ちょうど東大は、〝学問の自由〟に国家権力が最初に本格的に介入した事件(「帝大助教授が書いた論文の故をもって起訴されるなど前代未聞のできごと」/立花『天皇と東大』)であるとされる〝森戸事件〟、つまり助教授・森戸辰男が創設されたばかりの経済学部の紀要の創刊号に寄せた例の「クロポトキンの社会思想の研究」をめぐる騒動で大揺れに揺れていたが、新人会それ自体の内部も(まだ世間には露見していなかったわけだが)〝白蓮事件〟で大揺れに揺れており、新人会の後援者の一人でもあった森戸を、しかし擁護する運動どころではなかった。
 森戸の論文は新聞紙法の「朝憲紊乱」罪に問われ、最終的に(同年十月の上告棄却により二審の)禁固三ヶ月の刑が確定して森戸が収監されるという結末を迎えたが、新人会はともかく東大内外に森戸支援の動きが広がって、一審判決では「朝憲紊乱」にまでは当たらず単に「安寧秩序を乱し風俗を害した」とされるなど、立花隆も「敗北といえば敗北だが、これはなすところなく終った完敗型の敗北ではなく、いいところまでいった善戦惜敗型の敗北である。(略)森戸事件は、ファシズムの時代の最初の一幕というよりは、大正デモクラシーの時代の最後の輝ける一幕であったように見える」と評している。

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