『全共闘』(7)

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その7」は原稿用紙換算20枚分、うち冒頭11枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその11枚分も含む。

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(第1部 全共闘以前 第1章 「世界戦争」の時代)
(4.アナキズムとファシズム)


  対独協力文化人たち

 〝ファシズム発祥の地〟であるフランスにも、第一次大戦を経て、その戦場体験を精神の上に強烈に刻印された、ファシズム運動の新しい担い手たちが登場してくる。その代表格が、一八九三年生まれで、開戦時には二十一歳だったことになるドリュ・ラ・ロシェルだろう。ドリュも最前線に送られ、負傷もした。
 復員後、ドリュは次節で述べる前衛芸術運動の圏域に身を置き、やがて作家となっていくが、だいぶ後年の三四年に書いた短編小説「シャルルロワの喜劇」の登場人物に、「人間たちはこの戦争に敗れてしまった。そして人間を打ち倒したこの戦争はよこしまなものだった。この近代の戦争、この筋肉ではなく鉄の戦争。このわざではなく科学の戦争。産業と商業の戦争。企業の戦争。新聞の戦争。指導者ではなく将軍たちの戦争。大臣たちの、組合指導者の、皇帝たちの、社会主義者の、民主主義者の、王政派の、工業と銀行の、老人と女と子供の戦争。鉄とガスの戦争。戦う者以外のすべての連中によっておこなわれた戦争。先進文明の戦争」という言葉を吐かせている(『奇妙な廃墟』より孫引き)。
 ドリュの代名詞とも言えるキーワードが「放蕩」である。ドリュは前世代のバレスやモーラスが掲げた〝反近代主義〟や〝反ヒューマニズム〟にいくらか共感を覚えはしたが、一方で「ドリュの場合は二十世紀の戦場という極度に産業化され合理化された屠殺場での体験によって、近代がかかげたいくつもの理想や約束、ヒューマニズムの観念と倫理の崩壊はいわば直面すべきかつ逃れがたい出発点にほかならず、そのためにドリュはバレスやモーラスの整然とした理論だった、そしてそのために都合よくできていないこともない主張に対して鼻白む思いを抑えられず、不信の念をいだかざるをえなかった」(『奇妙な廃墟』、以下しばらく同)。バレスやモーラスの〝反近代主義〟は、しょせん頭の中で考えられたものにすぎなかったというわけだ。逆に徴兵されるにはまだ若すぎて、戦場を体験することができず、終戦後の平和ムードの中から出発して、無邪気に未来への夢や希望を語る年下の世代にも苛立つばかりだった。身の置きどころのないドリュは、「あくまで戦争のなかにとどまり、平和の時代を帰還兵として暮らし、次の戦争の予感のなかに生きざるをえず、そのために二大戦間の時代精神のなかの最も不安で退廃した側面を代表せざるをえなかった」。前衛芸術運動との関わりも、いわば〝シラケつつノリ、ノリつつシラケる〟といった体のもので、要するにどこかに自分の精神的な〝渇き〟を満たしてくれるところはないのかとウロウロ=〝放蕩〟していたのである。
 やがてドリュは文学の道を志す。「ドリュにとって放蕩の生活は、なかば探求の一形態であり、なかば退屈のなかでの待機だった。かれは系統だったものでもアカデミックなものでもなかったが、独学によって自分の歴史観と世界観をつくりあげ、それによって西欧とフランスの運命を占い、人間の未来を考察したが、しかし具体的な解決策にはたどりつけなかった。(略)ただ文学だけが、題材として放蕩をとりあげうることでかれにとって一貫した追求の対象となりえたのである」。二四年に最初の小説作品集を出版し、そのデビュー作においてすでに「一人称で放蕩な生活を書くというドリュの小説の基本パターンを確立」する。
 〝放蕩〟の過程でドリュは、アクション・フランセーズに代表される右翼運動にも接近すれば、左翼の社会主義運動にも接近している。ドリュが興味を抱いた社会主義運動の新しい動向の一つに、同世代で戦場体験者でもあるマルセル・デアのそれがある。
 デアはフランス社会党のいわば〝期待の新星〟として活躍し、注目されていたが、「マルクスの最終的に国家の消滅を想定する共産主義観を批判し、私的所有権の廃止は強力な国家のもとでしかおこないえないとその著書『社会主義の展望』のなかで主張、一九三三年の党大会でルーズヴェルトのニューディールや、ムソリーニのファシズム、ヒトラーのナチズムを『資本主義と社会主義のあいだにある新しい社会主義の形態である』とする認識にもとづく『ネオソシアリスム』を運動方針にかかげる動議を提出して、ブルムによって拒否されると社会党を脱退してしまった」。デアの〝ネオ・ソシアリスム〟も、新世代のフランス・ファシズム運動の中心の一つとなり、やがてデアは、フランス北半をナチス・ドイツが直接占領したのに対して南半に成立したナチス傀儡のヴィシー政府に参画、敗戦後、対独協力者として欠席裁判で死刑判決を受け、五五年に、ずっと隠れ住んでいたイタリアの修道院で死去することになる。
 「ファシズムを新しい社会主義とみなすデアの観点」をドリュも受け継ぎ、三四年には『ファシスト社会主義』なる著作を刊行するに至る。
 ドリュの考えるファシズムとは、「ナショナリズムを超えてアメリカニズムとボルシェヴィズムの双方に対するヨーロッパの復興運動」(福田和也『第二次大戦とは何だったのか』)であり、「ドリュに言わせれば、いまやアメリカとロシアに挟撃されてヨーロッパ自体が存亡の危機に立っており、(略)いまや真の敵はドイツではなく、物質主義のアメリカとボルシェヴィズムのロシアであり、ヨーロッパの生き残りをかけてドイツと融和すべきであるのに、アクション・フランセーズは相変らずドイツを負かしたといって有頂天になり、フランス一国の安定のために王政を求めているのである。ドリュにとって政治の最も基本的かつ一貫したモチーフが、このドイツとの融和とヨーロッパの連合であり、フランスからヨーロッパへの右翼勢力の献身の対象の拡大だった」(『奇妙な廃墟』)。
 ドイツを敵国視し続ける旧世代に対し、デアやドリュ以降の新世代のフランス・ファシストたちは、〝普遍的理念〟たることをそれぞれ誇るアメリカニズムとボルシェヴィズムの世界的拡大(つまりグローバリズムあるいはインターナショナリズムの脅威)に対抗するために、むしろ〝同じヨーロッパ〟のドイツとの融和を志向し、やがて敗戦を迎えた時に〝対独協力者〟として憎悪の対象となるわけだ(もちろん従来の反ドイツ的極右の立場を貫いた人々もいる。例えばすでに述べたように、アクション・フランセーズの戦闘的活動家で、セルクル・プルードンの創設メンバーでもあったベルナノスはレジスタンス側の英雄の一人となる)。
 さて、三四年二月六日、歴史用語としても単に「一九三四年二月六日の危機」とのみ呼ばれる大事件がパリで勃発した。極右によるクーデタがあわや成功しそうになる事件だが、同時期の日本の五・一五事件や二・二六事件のように少数者の決起によるものではなく、極右主導の大衆暴動によって、フランス第三共和制が崩壊寸前にまで追いつめられるのである。

 在郷軍人を会員とするクロワ・ド・フゥ[二七年結成のいわゆる「火の十字団」のことだが、NHK「映像の世紀」で広められた誤ったイメージとは異なり、まったくファシズム結社ではなく、むしろ穏健派の右翼団体で、人数が多く、しかも整然としたデモをおこなうので常に目立っていた]や、フランス版ファシズムのフランシスム[セルクル・プルードンの指導者だった元祖ファシストのジョルジュ・ヴァロワが率いた「フェーソー」に参加していた、根っからのムソリーニ信奉者マルセル・ビュカールが三三年に結成]、そしてかつての愛国者同盟[ジャコバン共和派的な右翼団体]の流れを引く青年愛国者同盟は、一九三四年の初頭から、カムロ・デュ・ロワとともにたびたび、政府の枢要な高官が関連していると噂された金融疑獄スタヴィスキー事件の究明を叫んで暴動を繰り返し、ついに二月にはパリは一種の無政府状態に達していた。一連の暴動でファシストに同情的で取り締まりを手加減していた警察長官を首相のE・ダラディエが解任したことに抗議して閣僚が辞任したために、内閣が崩壊し、下院が新内閣の承認のために臨時召集されたことから、疑獄の追及のために下院を襲撃することを右翼勢力の新聞がそろって提案し、またダラディエが警察への不信から暴動の鎮圧のために軍隊をパリに入れるという風説が飛びかったために、一般公衆に一種のヒステリーが発生した。右翼の新聞だけではなく、「パリ・ソワレ」をのぞくほとんどすべての新聞がダラディエを弾劾し、二月六日の下院開催に合わせたデモに参加するようによびかけ、共産党の機関紙「ユマニテ」までが二月六日のデモへの参加を党員によびかけたのである。当日は朝から不穏な空気が流れ、午後の六時にはコンコルド広場に集まったデモの参加者は総勢四万人におよび、カムロ・デュ・ロワと共産党員が肩を並べて議会へと行進するという奇怪な場面が展開された。議会への突入を阻止しようとした警察、憲兵とデモ隊の衝突はついに抜き差しならないものとなり、バリケードを築き実弾を撃ちあう市街戦の様相を呈したのである。議会内ではダラディエ内閣の信任をめぐって相変らずの綱引きが続いていたが、市街戦の様子が報告されるにつれて空気は緊迫し、もしも右翼と共産党が議会になだれこめば、共和制が崩壊し、右翼の脅迫下での採決によりパリ・コミューンのときのような臨時政府が樹立することもありうるように思われた。事態の深刻さを語った社会党の党首レオン・ブルムは敢然とダラディエ支持を決断して内閣を成立させ、決議ののち議員たちが議会から立ち去ると警察もやっと盛り返してデモ隊の議会侵入を阻止したのである。この二月六日の暴動はコミューン以来もっとも激しい流血となり、デモ隊と警官双方あわせて二十人近い死者と二千五百人の負傷者を出し、ブーランジェ事件とドレイフュス事件に続いて第三共和制は崩壊の瀬戸際に追いつめられたのである。
 (『奇妙な廃墟』、以下またしばらく同)

 ドリュ・ラ・ロシェルが本格的にファシズム運動に身を投じるのも、この「一九三四年二月六日の危機」を群衆の一人として熱狂的に通過して以降のことであるらしい。
 逆にこの「危機」に直面してファシズムの脅威を実感したフランス共産党の一部が、コミンテルンの押しつける〝社民主要打撃論〟から逸脱して社会党との共闘を模索し始め、翌年の「フランス人民戦線」結成へと向かう端緒となり、「危機」前年のナチス政権成立の衝撃もさることながら、直接的にはこの動きに押される形でコミンテルンは〝人民戦線戦術〟への百八十度の路線転換を図るのである。

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