反共ファシストによるマルクス主義入門・その1

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして執筆したものである。
 合宿では初日にマルクス主義の何たるかを学生たちに1日で理解してもらった上で、翌2日目から、ではそのマルクス主義に基づいて数十年前の学生たちが展開した諸運動がどのように展開したのか、という話が始まる。
 初期の合宿では、エドワルド・リウスというメキシコの風刺漫画家らしき人が書いた『フォー・ビギナーズ マルクス』という本(私が18歳の時に読み、その“1を聞いて100を知る”天才的読解力によって、今から思い返してもそう間違ってはいないマルクス主義理解のもと、その後3年間ほどマルクス主義者となるきっかけとなった本でもある)を、その初日の“マルクス主義入門”のテキストに使用していた。しかし諸事情あって、そのリウスの本に依拠しつつ私が話して付け加えている情報も全部まとめて、いっそ独自のテキストを2016年夏に作成してみたものが、これである。
 そういう成立事情なので、(後半の“ロシア革命篇”に移るまでの)話の進め方というか全体の骨格というか、そこらへんは完全にリウスのそれを踏襲している。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。
 第1部は原稿用紙19枚分、うち冒頭5枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその5枚分も含む。
 なお、全体の構成は「もくじ」参照。


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   1.はじめに

 ここに概説するのは、いわば“古典的”なマルクス主義である。“マルクス・レーニン主義”とも云う。

 マルクスは1818年に生まれ、1883年に死去している。マルクス本人が生きていた時代には、まだ“マルクス主義”などというものはなく、せいぜい単に“マルクス派”がいただけである。マルクスの死後、マルクスの盟友だったエンゲルスが、マルクスの思想を体系的に整理して、“マルクス主義”を確立する。つまりまず第一に“マルクス主義”とは“エンゲルスによるマルクス解釈”である。「マルクス・レーニン主義」とは、この“エンゲルスによるマルクス解釈”をさらにレーニンが解釈したものである。1917年のロシア革命の成功によって、世界中のマルクス主義者たちの間でレーニンの権威は絶対的なものとなり、革命に成功したのだから、レーニンによるマルクス主義解釈が正しかったことが証明されたのだと考えられた。

 20世紀に世界中に広まり、圧倒的な影響力を持ったのはこの「マルクス・レーニン主義」であり、とくに日本を含む非欧米圏では、マルクス主義は最初から「マルクス・レーニン主義」として持ち込まれた。

 もちろん20世紀後半以降、誰の目にも明らかとなった自称「社会主義」圏の悲惨な実態から、この“古典的”なマルクス解釈はマルクス主義者自身によっても疑われ始め、最初はレーニンを引き継いでソ連の指導者となったスターリンによる「マルクス・レーニン主義」解釈がおかしいのではないかと云われ、次にそもそもレーニンのマルクス主義解釈の時点ですでに誤っていたのではないかと云う者が現れ、今日では、“マルクスの思想”を“マルクス主義”に体系化したエンゲルスに問題があるという者も珍しくない(さらには“後期マルクスが初期マルクスを裏切った”という説も)。

 したがって、これから概説する「マルクス・レーニン主義」は、とくに知識層の間ではすでに古臭くなってしまった“自称マルクス主義”にすぎないのだが、20世紀の革命運動史を理解するにはこの“古い解釈”への理解が不可欠であることもまた云うまでもない。


   2.マルクスの生涯

 まず伝記的事実を確認しておこう。

 先述のとおり、マルクスは1818年に生まれ、1883年に死んだ。ドイツ人で、今日のトリールという街にユダヤ人弁護士の息子として生まれている。父の代にユダヤ教を捨てキリスト教に改宗しており、またトリールはユダヤ人差別の少ないリベラルな土地柄だったらしく、マルクス自身にもユダヤ人としてのアイデンティティはほとんど見られない。

 1835年にボン大学に入学して法学を学び、翌年にはベルリン大学に入り直して哲学を学んでいる。最初に法学を学んだのは弁護士だった父の希望に沿ってのことで、本人の関心はもともと哲学や文学にあったようである。

 後に改めて述べるが、当時の哲学界ではヘーゲルの哲学が一世を風靡していた。ヘーゲルは「ドイツ観念論」を完成させたドイツの哲学者で、1831年に亡くなっており、マルクスがヘーゲル哲学を学び始めた時期には、ヘーゲルの弟子たちが師の哲学の解釈をめぐって「右派」と「左派」に分かれて論争を繰り広げていた。マルクスは「ヘーゲル左派」の影響下に自らの哲学を形成していく。

 1838年に父が死去すると、ますます法学ではなく哲学にのめり込み、哲学研究者の道を志すようになったが、おりしも言論統制が強まり、ヘーゲル左派の哲学者たちが大学を追われたりして、マルクスも大学に残ることを諦めた。学生時代のマルクスは、酒場(哲学者が集い議論に熱を上げているような酒場ではあったが)に入り浸り、また決闘事件で負傷するなど、“酒と女と歌に夢中”で、どちらかと云えば不良青年的な軟派学生のキャラクターであったようだ。

 大学卒業後のマルクスは、哲学研究仲間のツテで、進歩派の新聞の執筆者・編集者の仕事を得て、いわば進歩的ジャーナリストとして生活するようになるが、やはり言論統制により、主筆を務めていた新聞が発行禁止となり、マルクス自身も政府から目をつけられるなどして、1843年にパリへ移住する。当時のパリにはヨーロッパ各地から社会主義者たちが亡命してきており、マルクスも彼らとの交際をつうじて次第にはっきりと「社会主義者」となっていく。このパリ滞在中に、生涯の友人となるエンゲルスとも知り合う。

 エンゲルスは1820年生まれで、マルクスの2歳下。父は紡績工場の経営者で、その仕事を手伝ううちに労働者たちの悲惨な生活状況を身近に知って衝撃を受け、大ブルジョアの子弟ながら社会主義者となる。やがて父の工場を継ぎ、マルクスの単なる同志にとどまらず、生活費を援助するパトロンともなる。

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