反共ファシストによるマルクス主義入門・その14

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  〈ロシア革命史篇〉その1

  「その13」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。なお引用部分の太字は、原文がそうなっているのではなく外山の処理である。
 第13部までが“本編”で、初期の合宿でテキストとして使用していたエドワルド・リウスの『フォー・ビギナーズ マルクス』を下敷きとしたというか、説明手順をそのまま踏襲しつつ内容的には私が全面的に書き直したような部分だが、この第14部から、リウスの本からは離れた“ロシア革命史篇”で、つまり“レーニン主義”の解説となる。
 ここからはリウスの本ではなく、主に松田道雄『世界の歴史22 ロシアの革命』(74年・河出文庫)という本に依拠している。この稿を書くに際していくつかのロシア革命史の本をパラパラめくってみて、どうも松田道雄のものが一番バランスが良い気がして、熟読しているうちにだいぶ影響されてしまったのだが、のちに桜井哲夫が『社会主義の終焉』(91年・講談社学術文庫)で「この国では現在読んでもすぐれている松田道雄の仕事が、無視ないし軽視されてきた」と怒っているのを読んだ。ロシア革命後は弾圧されてしまったアナキズムに同情的な雰囲気があり、マルクス・レーニン主義に対して距離を保った書き方になっているためだろう。

 第14部は原稿用紙19枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその6枚分も含む。

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   18.ロシア革命前史

 社会主義者に対しても「言論の自由」が一定保障されつつあったイギリス、フランス、ドイツなどの西欧先進諸国とは異なり、ロシアでは引き続きあらゆる反体制派を厳しく弾圧する圧政が敷かれていた。社会主義者たちの組織活動も完全に地下に潜った秘密結社の形をとる他なかった。

 ヨーロッパにおいてロシアは圧倒的に遅れた後進国であり、フランスなどではとうに社会主義運動の火が燃えさかっている1840年代に入ってもなお、社会主義はロシアにほとんど流入していなかった。1840年にバクーニンが初めて社会主義に触れるのも、留学先のベルリンにおいてである。そもそも当時なお「農奴」が生産人口の圧倒的大多数であり、資本主義など影も形もないロシアに社会主義運動が登場するはずもない。「ウィーン体制」を揺さぶったヨーロッパ内外のさまざまな動きの1つである1825年の「デカブリストの乱」以来、ロシアの〝進歩派〟とは長らく、皇帝専制を批判する自由主義貴族たちであり続けた。

 バクーニンより2歳年上のゲルツェン(1812〜70)が、1847年、西欧の自由に憧れてロシアを脱出し、翌年のパリの2月革命などを目の当たりにし、自由主義に幻滅して社会主義に目覚め、西欧各地からロシアの雑誌に書き送った論文が、ロシア社会主義の出発点となるが、もちろん資本主義が始まってもいないロシアで現実の社会主義運動はそう簡単には始まらない。

 1861年、ロシア皇帝・アレクサンドル2世農奴解放令を出したが、これは自由主義者たちの煽動によって農奴解放運動に火がつく前に予防的に〝上から〟おこなった形ばかりの〝解放〟であって、広いロシアの大部分を占める農村の封建的な状況はほとんど変わらなかった。

 とくに後進国において革命の先頭に立つのはたいていの場合、学生であって、それは19世紀後半のロシアにおいても同様であった。農奴解放令と同じ1861年、政府が学生集会を規制するなどの法を定めたことを機に、学生らの抵抗運動が却って高揚した。

 前後して、ロンドンにいたゲルツェンを訪ねてきたロシア人青年を中心に、ゲルツェンとその古くからの同志オガリョフ(1813〜77)の協力のもと、「土地と自由」という秘密の革命結社が組織された。

 政府のスパイ網はゲルツェンの周囲にもはられていて、多数の手紙をもった連絡員がロンドンにたったという知らせを打電してきた。六二年七月、この連絡員の逮捕によって三二人が検挙されて、「土地と自由」の中枢部は壊滅した。チェルヌイシェーフスキーの検挙もこのなかにはいっている。イタリアのアナーキストのマッチニ(引用者註.マッツィーニのこと)の組織論を採用したオガリョフの党規約によって、細胞の五人以外の顔を知らぬという組織法が、非合法性をよく守ったのと、メンバーが少なくて印刷物をあまりだせなかったのとで、「土地と自由」の実体は今日ではよくつかめない。
 (松田道雄『世界の歴史22 ロシアの革命』74年・河出文庫)

 文中に登場するニコライ・チェルヌイシェフスキー(1828〜89)は、この逮捕後の1863年に、自身と自身の周囲の革命家たちをモデルに獄中で書き、数十年にわたってロシアの革命青年たちを熱狂させ続けた小説『何をなすべきか』で知られる(レーニンもこの小説を愛読し、革命の戦術を論じた自著に同じタイトルをつけている)。

 ロシアの革命史はとにかく陰惨の一言に尽きる。少し先走るが、レーニンが率いた革命党「ボルシェヴィキ」と、レーニンの後継者で最悪の独裁者として悪名高いスターリンについての、福田和也の言を引く。

 ボルシェヴィキは、それこそデカブリスト以来、ロシアの専制的権力と対峙してきた反政府勢力のエリート中のエリートなわけ。ドフトエフスキーが関係したペトラシェフスキー事件みたいに、ちょっと啓蒙的な自由思想をもて遊んだだけで死刑判決を受けるような過酷な弾圧と、全国津々浦々に張り巡らされた秘密警察に対抗をするために、バクーニンといったアナキスト、テロリストたちが作りだした鉄の団結と党への絶対的忠誠を金科玉条としたのがボルシェヴィキなわけ。党の命令には絶対服従、革命のためには、殺人だろうが、何だろうがすべてを行う。実際スターリンは、活動費のために、強盗をはたらいたり、売春宿を経営したとすら云われている。スターリンやレーニンというのも活動上の名前で、本当の自分は捨ててしまったわけ。党のためには人格なんて無に等しい。
 (略)
 ……で、家族も友人も、革命の前には無に等しい、という徹底的な献身があって、はじめて強大なロマノフ王朝を倒すことができた。大粛清のなかで、ブハーリンら幹部たちは、みんな無実の罪を告白して死んでいくんだけど、これは彼らの中で、党のため、革命のためならばあえて歴史上の汚名を負っても構わないという意識があったから。
 (『超・偉人伝』新潮文庫・03年)

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