『全共闘』(19)

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その19」は原稿用紙換算20枚分、うち冒頭7枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその7枚分も含む。

     ※          ※          ※

(第1部 全共闘以前 第2章 草創期の左翼学生運動)


   3.早大建設者同盟

 民人同盟会

 早稲田大学もまた、東大・京大と並んで長く〝学生運動のメッカ〟であり続けた大学である。その起源も同様に古い。
 そしてまた、東大新人会の創設の背景に京大生に対する東大生のライバル意識があったのに似て、東大を〝官学〟の府と(実際そうだが)見なし、〝在野精神〟とやらを自負する早大生たちの、東大生たちへの対抗意識も濃厚に窺われる。
 一八年十二月の黎明会や東大新人会の結成に刺激を受けて、早大でも社会科学・思想を研究し啓蒙する学生組織を作ろうという動きが活発化していく。その中心にいた一人が和田巌である。九八年生まれで、九〇年代前半の生まれである東大新人会の創設メンバーたちよりもだいぶ若い。岐阜中(現・岐阜県立岐阜高校)時代の同級で、敗戦後に社会党右派の重鎮となる平野力三によれば、平野自身はまだ『猿飛佐助』などで一大ブームとなっていた立川文庫の講談本を読みふけっていた当時、すでに和田は「ロシア文学に親しみ、カント、ベルグソンなどもかじってい」るような早熟な青年だったという(『建設者同盟の歴史』)。やがて早大に入学した和田は、雄弁会に入ってその「花形の一人」となり、「学生でありながら先輩に立ちまじって、運動家として一家を成したふうがあった」。
 早大雄弁会というと、幾人もの総理大臣を含む大量の保守政治家を輩出していることもあって、一般的には保守的なサークルのイメージが強かろうが、もともと〇二年に、明治天皇への田中正造の〝直訴〟で有名な足尾鉱毒問題に憤り、被害状況を訴えるために各地を遊説して回った学生たちによって結成されたものである。早大創設者の大隈重信は、首相にも二度就任する明治維新以来の超大物政治家とはいえ、多くの時期を野党指導者として過ごし、また早大生たちにも常日頃から〝在野精神〟を鼓吹しており、雄弁会のこうした活動も熱心に後援した。はるか後年の全共闘の時代にも、それどころかほとんど二十世紀いっぱいを通して、雄弁会には一貫して〝左派〟の系譜が強力に存在したほどで、まして当時は〝大正デモクラシー〟の時代である。いかにも雄弁会的な政治家志望の野心的な学生であっても、むしろ左派であるのが普通だったのだ。
 一九年二月、十名ほどの雄弁会の左派分子が「民人同盟会」を結成する。創立宣言には「頑迷者流の時代錯誤の思想を撲滅し、デモクラシーの普及および徹底によって新時代の陣頭に起たねばならぬ」などと謳われた。
 中心にいたのは和田の他に、高津正道である。九三年生まれだから年齢的にも和田よりずっと上で、どうもこの民人同盟会では高津のほうに主導権があったようだ。高津はこの後、アナキズム、さらにボルシェヴィズムへと急速に左傾していき、初期共産党では中心的な活動家の一人であり、敗戦後は社会党左派の重鎮となる。
 この高津と、和田は気性が合わなかったらしい。和田は、周りがその人柄に惚れ込んでついて行くというタイプの指導者だったが、高津は、理論家で頭はいいが人柄にあまり魅力がないと感じさせてしまうタイプであった様子で、『早稲田大学百年史』には、「仏門から学苑に入った高津は理想主義的・観念的であり、ボルシェヴィキの過激性に魅せられ、夙に堺利彦や山川均らに接近した。一方、岐阜県の農村から学苑に進んだ和田は気骨稜々たる国士的デモクラットで、労働運動に投じ、友愛会の下部団体として組織された労学会[京大労学会ではなく野坂参三らによる東京の労学会]の幹部となった。それ故、和田は鈴木文治や北沢新次郎と親しかった」、「高津らは学外の社会主義者のグループと提携して、その学内組織となるよう主張したらしい。それに対して、和田らは先ず地道に社会主義の諸理論を勉強し、必要に応じて労働運動を援助するのがよいとしたらしい」などとある。
 政経学部の講師だった高橋清吾が顧問を務め、商学部教授の北沢新次郎もまた民人同盟会の学生たちの指導にあたったが、和田は「性格が狷介」な高橋をも嫌っており、むしろ北沢を慕っていた。高橋と北沢もまた肌が合わなかった。後述するように和田はほどなく、仲間たちにも「頑迷愚劣」とこぼしていた高橋に代えて、北沢を民人同盟会の顧問とすべく画策して失敗し、同調者を率いて脱会するに至る。
 北沢の名にはすでに前節でも友愛会や黎明会に関連して言及しているが、同時期の東大の活動家たちにとっての〝吉野作造〟にあたる存在が、早大においてはどうやら北沢である。早大を一〇年に卒業し、欧米留学を経て一六年に早大教授となったが、この時期すでに欧米の労働運動の紹介者として斯界に重きをなしていた。思想的には、サンディカリズムやボルシェヴィズムを排し、イギリス流の労働運動を称揚する穏健な社会主義者だった。

 民人同盟会の結成に参加し、以後も和田と共に早大学生運動の主流を担っていく〝雄弁会左派〟の面々というのがまた、実に錚々たるものである。
 まず何と言っても浅沼稲次郎だろう。はるか後年、社会党委員長として、六〇年安保の騒動を共産革命の危機と取り違えた十七歳の右翼少年によって刺殺されることになる、あの浅沼である。
 坐り込まれてしまうと排除するのに警官四、五人でもまだ手が足りなかったというほどの巨漢で、東京府立三中(現・東京都立両国高校)時代にも相撲部に入っていたが、次第に政治家に憧れるようになり、四年生になると弁論部にも入った。早大に進学してからも同様である。浅沼刺殺事件に関する傑作ルポルタージュである沢木耕太郎の『テロルの決算』では、「雄弁会に入会すると共に、相撲部にも入部した。あるいはボートを漕ぎ、各科対抗レースに出場しては優勝し、大隈重信に『いい躯だなあ』と肩を叩かれ、讃められたりした。/これだけなら、大学によくいる運動部系の右派学生と何ら変わるところがない。いや、風体からいっても、右派学生そのものだった。彼は、紺絣の着物に袴をはき、草履をつっかけ、ノートを懐に無造作に入れ、いわゆる典型的早稲田マンのスタイルで大学に通っていた。やがて、浅沼を学生運動のヒーローにすることになる軍研事件で、学内の右派学生に最もひどいリンチを受けたのが彼だったのは、『相撲部に属していながら赤の手先になりやがって』という反感を買ったためである」とされている。

ここから先は

5,059字

¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?