絓秀実『1968年』超難解章“精読”読書会(2017.4.9)その5

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その4」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 絓秀実氏の『1968年』(06年・ちくま新書)の“精読”読書会(の一部)のテープ起こしである。
 2017年4月9日におこなわれ、『1968年』の中でも最も難解だと思われる「第四章」と「第五章」を対象としている。紙版『人民の敵』第31号に掲載された。
 絓氏の『1968年』の現物をまず入手し、文中に「第何章第何節・黙読タイム」とあったら自身もまずその部分を読んでから先に進む、という読み方を推奨する。

 第5部は原稿用紙16枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)にはその6枚分も含む。

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 (「第五章 内ゲバ/連合赤軍事件/革命
  1.リンクする華青闘告発と内ゲバの『論理』」黙読タイム)


 “前衛党”を黙らせたマイノリティ運動

外山 それでは何かあればどうぞ。……226ページの6行目に、「マイノリティー運動の登場は、それまで『統一と団結』として表象されていた運動が、必然的に亀裂を内包せざるをえないことを露呈させた」とあります。これはつまり、新左翼運動の大部分をさまざまのマイノリティ運動、反差別運動へと転換させる決定的契機となった華青闘告発が、あらゆる社会問題は“前衛党”が保持している“革命”理論の体系の中に包摂されているという幻想、“前衛党”の指導のもと成就される“革命”は「全てを解決してくれる『魔法の杖』」(227ページ)であるかのようなイメージ、要するに“前衛党神話”を崩壊させた、ということです。“前衛党”の革命理論の体系、つまり“大きな物語”には包摂しえない、さまざまな差別問題をはじめとするさまざまな個別課題は厳然として存在するんだということを、我こそは真の“唯一の前衛党”なり、と主張して相争っていた諸党派に最終的に認めさせたのが、華青闘告発という大事件なんですね。
 ではなぜマイノリティ運動がそのような力を持ちえたのか? それは268ページの後ろから2行目に書かれているように、「七〇年当時のマイノリティー運動の強度は、良くも悪くも、その本質主義的な側面にあった」ということになります。まあ要は、“ムチャ”を云ったわけです(笑)。“他人の痛み”なんて誰も本当には分からないことなんか当たり前なのに、さまざまのマイノリティ運動の当事者たちは、「差別された者の痛みが、おまえにわかるか」、「足を踏まれた者の痛みが、踏んだ者にわかるか」というような、不毛といえば不毛な殺し文句をあえて多用しました。そんなこと云われたら、“分からない”と“開き直る”ことはあらかじめ禁止されてるわけですし、何も云い返せませんよね? だから“前衛党”を黙らせることもできた(笑)。


 資本主義への批判力を失うフェミニズム

外山 70年以降に急速に拡大した、さまざまなマイノリティ運動の主要な1つであるウーマンリブは、80年代に入ると“フェミニズム”になりますが、フェミニズムは、ウーマンリブが持っていたような“良くも悪くも、本質主義的な側面”を捨てています。ウーマンリブの場合は、女にしか分からない、男には決して分からない“何か”があると主張したわけで、そういうスタンスをここでは“本質主義”と呼んでいるわけですね。フェミニズムでは、いわゆる“ジェンダー”論というやつで、“性差”は社会によって後天的に“作られる”ものなんだから、“女”にしか分からない“何か”なんてあるはずがない、ということになります。おそらくフェミニズムの云ってることのほうが“科学的に正しい”んでしょうけど、それは、“前衛党”あるいは既存の国家や社会の掲げる“大きな物語”に包摂されないための武器だった“本質主義”を手放したということでもある。だから、フェミニズム的なそれをはじめとして、さまざまのマイノリティ問題は、資本主義がもっと発展すれば解決するものであるかのように思われ始めてしまう。実際、日本のような先進資本主義国では、“男女雇用機会均等法”が制定されたり、“男女共同参画社会”の実現が目指されていたりします。解決するんならそれでいいじゃないかという意見もあるでしょうが、それは要するに“資本主義”は“乗り越えることができない”ということも意味するんです。
 267ページの後ろから3行目に、「フェミニズムの要求を拒絶する論理を新左翼が持ちえないことは言うまでもない。それは、資本主義にしても同様である」とあります。「フェミニズムの要求」というのは要するに“男女平等”ですから、当然、左翼はそれに賛同せざるをえません。資本主義だって近代においては民主主義とセットですから、やはり“男女平等”を否定することは原理的にできません。フェミニズムに限らず、さまざまなマイノリティへの不当な扱いは、左翼にとってはもちろん、資本主義=民主主義の体制にとっても廃絶していかなければならないことです。日本を含む西側先進諸国の政府は、“68年”を契機に噴出したさまざまのマイノリティ問題の提起を、やがては“受動的に”受け入れざるをえなくなる
 ウーマンリブ的な“本質主義”に対して、フェミニズム的な、性差などは社会的に構築されたものにすぎないという立場、だからこそ社会を改良することによって問題解決を図ることも可能だという立場を“社会構築主義”と呼びますが、268ページにあるとおり、「社会構築主義は一つ間違えば、かつての革命至上主義や資本主義的改良への期待に回収されかねない危うさをも内包している」という、ここらへんもやっぱりいかにも絓さんっぽい、ジレンマの提示ですね。ウーマンリブや部落解放運動などに見られた“本質主義”的な物云いというのは、間違っていたかもしれないし、不毛っちゃあ不毛だったかもしれないんですが、269ページにあるように、「にもかかわらず、そのような本質主義的な言説は『魔法の杖』によってすべてを解消しがちな、つまり、社会が変われば全てが解決されるという当時の党派イデオロギーに対して、すぐれて抵抗するものであった」んだし、「資本主義的改良への期待」に抵抗するものでもあったはずです。


 “60年”と“68年”との間にある断絶

外山 こういう話はもちろん前章での吉本隆明への批判ともつながっていて、277ページに、「新左翼の創成や六〇年安保を思想的にリードした黒田と吉本という二人の思想家(を頂く党派)が華青闘告発に応接できなかったというところに、日本の『六八年』が決定的に六〇年安保と切断されている様相を見ることができる」とあります。

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