反共ファシストによるマルクス主義入門・その23(完結)

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  〈ロシア革命史篇〉その10

  「その22」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。なお引用部分の太字は、原文がそうなっているのではなく外山の処理である。
 第13部までが“マルクス主義入門”の“本編”で、第14部からは“おまけ”的な“ロシア革命史篇”で、つまり“レーニン主義”の解説となる。
 第13部までエドワルド・リウスの『フォー・ビギナーズ マルクス』に、第14部からは松田道雄『世界の歴史22 ロシアの革命』に、主に依拠している。

 第23部は原稿用紙17枚分、うち冒頭5枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその5枚分も含む。
 なお、この「反共ファシストによるマルクス主義入門」はこれにて完結である。

     ※     ※     ※

   31.主要打撃論と人民戦線論

 ソ連における凄まじい権力闘争は、それに伴うコミンテルンの方針の目まぐるしい変化を通して、国際関係にも深刻な影響を及ぼした。その顕著な例が、スターリンがブハーリンら右派を切り捨てようとしている時期にコミンテルンの基本理論となった、いわゆる“社民主要打撃論”(または単に“主要打撃論”とも云う)である。

 「社民」とは社会民主主義、つまり議会制民主主義の枠内で社会主義的な政策を実現しようとする立場で、思想的にはマルクス主義だが運動論としてはボルシェヴィキ式の暴力革命路線を採らない社会民主主義内の左派と、そもそも思想的にもマルクス主義ではない社会主義を掲げている右派とがある。

 ジノヴィエフやカーメネフら左派がスターリンの当面の敵となっていた時期にコミンテルンが唱導したのは、“統一戦線戦術”だった。他の政治勢力が掲げる方針との差異を強調し、より先鋭的な方針を掲げて単に孤立を結果するような“極左的”な路線が否定され、典型的には、中国において共産党員が共産党の党籍を維持したまま“ブルジョア政党”である国民党に加盟して(国民党を内側から浸食しながら)共闘する、いわゆる“国共合作”が進められたりした。

 しかしジノヴィエフら左派の追い落としに成功し、今度はブハーリンら右派を除かなければならないという局面になると、コミンテルンの方針も一転して“極左的”なものとなる。

 今度は、共産党は独自の道をすすむべきで、社会民主主義党派、民族主義党派、プチ・ブル党派などとははっきり訣別し、非妥協的に闘うという方針が出されてきた。(略)
 特に、社会民主主義に対しては、一番厳しい対立関係に入ることになった。スターリンの分析によれば、社会民主主義がブルジョア体制を支えている重要な支柱だった。社会民主主義は共産主義運動にとって味方の一翼ではなく、敵の一翼である。そして、社会民主主義の中でも、左派の部分、つまり共産党により近い部分が一番危険な敵であるというのだ。共産党だけがプロレタリアートの唯一の代表だということが強調された。
 社会民主主義は、やがて、ブルジョア体制の支柱どころか、ファシズムの一翼とみなされ、“社会ファシスト”と呼ばれるようになる。つまり、ファシストと社会民主主義者は対立物ではなく双生児であり、ファシズムを左右から支えている組織だとみなされたのである。ブルジョア体制が社民党に支えられているという考え方から、革命への近道は社民党へ攻撃を集中することだという“社民主要打撃論”という考え方さえ生まれるようになった。
 こうした考え方をもとに、ドイツ共産党は当時政権を取っていたドイツ社民党に過激な闘争をいどみ、そのために、当時勃興しつつあったナチスと協力しあうことさえいとわなかった。ドイツ共産党は、ナチスの政権獲得にさほど危機感を持たなかった。ナチス政権のほうが社民政権よりまだましだ、ナチスの次は共産党だというのが彼らの情勢判断だったのだ。だから後に、「スターリンがいなかったらヒットラーは生まれなかったろう」といわれるようになるのである。
 (立花隆『日本共産党の研究』

 日本共産党を含む世界中の共産党の活動を深刻な混乱と孤立とに陥らせ、左翼勢力の不統一に乗じての、ファシズムをはじめとする右翼的な反体制運動の伸長に寄与した、この社民主要打撃論がようやく引っ込められ、正反対の“人民戦線戦術”が提唱されるのは、日本共産党などはとうに完全壊滅(35年3月)して以降の、35年7月のコミンテルン第7回大会においてであった。

 現実に、ドイツでナチスの独裁が成立し、ヨーロッパ最強の党であったドイツ共産党が無惨にも徹底的に破壊され、ナチス・ドイツのソ連侵略の危険性が生まれてくるに従って、コミンテルンは総力をあげてファシズムに対抗するために、反ファッショの一点で一致できるかぎり、あらゆる政治勢力と(リベラルな保守とさえ)手をたずさえるという方向に戦術を転換したのである。これまでのセクト主義とは対極的な戦術だった。階級闘争に代って民族主義のスローガンが掲げられた。主要な敵は、できるだけ幅の広い反ファシズム統一戦線の結成を阻害するセクト主義となった。
 (立花隆『日本共産党の研究』)

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