『全共闘』(10)

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 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その10」は原稿用紙換算29枚分、うち冒頭14枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその14枚分も含む。

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(第1部 全共闘以前 第1章 「世界戦争」の時代)
(5.前衛芸術運動)


  ダダ

 未来派は自ら主体的に第一次大戦という歴史的激動に身を投じた、というよりもむしろ、遠くで始まったその激動を自ら進んで手元にまでたぐり寄せた芸術運動だが、言ってみれば受動的に、未曾有の大戦争という現実に直面させられた若い芸術家たちの間から生まれてきたのが、ダダである。「ダダ〝イズム〟」と呼ばれることも多いが、当事者たちはそのようには自称していない。くだんの〝マニフェスト〟も「ダダイズム宣言」ではなく「ダダ宣言」だ。
 もっとも、ダダは戦場で生まれるわけではない。前線と銃後の区別に意味がなくなるのが二十世紀的な〝世界戦争〟で、つまり〝銃後〟だって戦場なのだし、しかも若者が芸術なんぞにうつつを抜かしている余裕があるわけもなく、ダダが生まれるのは、そもそも戦争に参加していない中立国のスイスにおいてである。

 じっさい、この時期のチューリヒは不思議な街だった。自称貴族や革命家や芸術家、大金持ちの令嬢とジゴロ、ただのごろつき等々得体のしれない連中がヨーロッパ中から集まっていた。革命家レーニンもいれば、『フィンネガンズ・ウェイク』の著者ジェームス・ジョイスもいた。
 (塚原史『言葉のアヴァンギャルド』

 要するに各国から亡命者や徴兵忌避者、厭戦派などの若者がどっと押し寄せていたのである。レーニンは亡命者だし、ダダの創始者となる若者トリスタン・ツァラは、ルーマニアからやって来た徴兵忌避者だ。
 ダダの運動は、若い芸術家のたまり場になっていたチューリヒ市内のカフェ「キャバレー・ヴォルテール」で始まるのだが、そのほんの目と鼻の先、徒歩数十秒ぐらいのところにレーニンが住んでいたというのも有名な話である。ダダ発祥以後、「キャバレー・ヴォルテール」では連日のように、おそらくは「未来派の夕べ」を意識した「ダダの夕べ」のどんちゃん騒ぎが繰り広げられ、ちょうどその一連の展開のピークの時期に、レーニンはその至近で『帝国主義論』を書き上げたというのだから、並々ならぬ集中力という他ない。この面白すぎる偶然に着目し、本物の史料からの引用だけを継ぎはぎして、いやそれは偶然なんかではないのだ、というのも実はレーニンこそがダダの真の創始者であり主導者であり、それどころかレーニンの共産主義運動なるものは、何を隠そうすべてこれダダの実践としておこなわれていたのだ、というトンデモ結論をもっともらしい学術論文の体裁ででっち上げた、ドミニク・ノゲーズ『レーニン・ダダ』という傑作もある。
 いずれにせよ塚原も言うように、「戦争がなければダダは存在しなかった」ことは確かであろう。戦争がなければ、徴兵を忌避するような反抗的、少なくとも非順応的なタイプの若い無名の芸術家たちが各国から限られた狭い領域に集まってくるようなことはなかっただろうし、それ以上に、開戦からすでに二年を経て、過去の牧歌的な戦争とは違う二十世紀の〝進歩的・科学的〟な戦争の苛酷な現実を、とくに若者であれば誰もが知るところとなっていなければ、ダダの実践にあれほどまでにニヒリスティックな装いが与えられることもなかったはずである。
 ダダとは要するに、くだらないものを、ということはつまり世の中のあらゆるすべての物事を、笑い飛ばす芸術である。いや、芸術ではないかもしれない。主にダダを指して〝反芸術〟運動とも言うように、むしろ芸術をこそ笑い飛ばしたのがダダである。すべてがくだらないのに、まだ何か深遠な、表現すべき対象なり内面なり、またそれを表現することを担いうる自らの確固たる主体性なりがあるかのような顔をして、〝「芸術」とか言ってんじゃねーよ!〟という苛立ちの爆発である。当然、悪意に満ちている。というより悪意しかない。とくに芸術に対する悪意であり、だから〝反芸術〟運動なのである。いわば芸術の自己破壊・自己否定の運動である。それを、徹底的に、かつなるべく騒々しく展開したのがダダである。未来派は、アナキズムから進化したところのファシズムに親和的だったが、ダダは、アナキズムを改めて一からやり直したのだとも言える。未来派がノイズやテクノの祖先なら、ダダはパンクの祖先ということにもなろう。
 一九一六年七月十四日、これがダダ誕生の日付とされる。第一回目の「ダダの夕べ」が(キャバレー・ヴォルテールではなく「マイゼ・ホール」という場所でだが)挙行されたのがこの日なのだ。
 ただし当然、多少の前史がある。
 ダダが誕生するに際してその産婆役を担うのがフーゴ・バルである。バルもまた、ドイツからの一種の亡命者と言ってよかろう。大戦勃発当初は他の多くの人々と同様にバルもまた熱狂し、陸軍に志願したが、健康上の問題で採用してもらえず、そこで軍用列車に勝手に飛び乗って(当然やがて見つかって拘束され、スパイと疑われて危うく銃殺されそうになる)、前線ベルギーで目撃することになった自国ドイツ軍の横暴に幻滅し、完全に反戦派に転向する。二七年に出版されたバルの日記『時代からの逃走』は、一四年十一月、つまり反戦派に転じて間もない時期の、「私はいま、クロポトキン、バクーニン、メレジコフスキー[ロシアの詩人・作家・批評家。ボルシェヴィキ革命後にフランスに亡命し、ヒトラー支持の反共派となる]を読んでいる」という記述から始まっているという(生松敬三『二十世紀思想渉猟』)。のちダダの運動を離れて以降、『バクーニン語録』の刊行を企図したほど、アナキズムとくにバクーニンへの傾倒は深かったらしい。
 バルはベルリンで、やがて同じくチューリヒでダダ創始者の一人となるリヒャルト・ヒュルゼンベックと共に、「戦没詩人追悼式」を開催する(〝追悼〟の対象は敵国フランスの戦没詩人!)などの文化的反戦パフォーマンスを繰り返した末に、身の危険を感じるようになって、開戦の翌一五年、恋人のエミー・ヘニングスと共にスイスへと逃亡する。
 一六年二月、「キャバレー・ヴォルテール」の開店初日、バルがいよいよ店を開ける準備をしているところに、くだんのトリスタン・ツァラ、そしてやはりダダ創始者の一人となるマルセル・ヤンコを含む、ルーマニア人の若者四人組が通りかかって、話しかけてきた。ツァラはこの時、十九歳。バルのほうは二十九歳である。
 ケネス・クウツ=スミス『ダダ』によれば、「キャバレー・ヴォルテール。この名のもとに芸術家や作家たちのグループが芸術のためのセンターを作ろうとしている。キャバレー・ヴォルテールは毎夜集会を行なうことを原則とし、ここを訪ねてくる芸術家たちは音楽と詩に深く包まれることになるであろう。アイデアと協力を得るためにチュリッヒの若い芸術家たちを招待する」という広告が、開店三日前にチューリヒのいくつかの新聞に掲載されたというから、あるいはツァラもそれを見たのかもしれない。開店初日の店開きのイベントに、ツァラも出演することになった。
 バルは詩人だが、学生時代には演劇に熱中し、またチューリヒに来てしばらくは、歌手・ダンサーだった恋人ヘニングスと共に、演芸の一座にピアニストとして加わることで生計を立てており、つまり多芸多才で、興味関心も芸術全般に及び、したがってジャンルの垣根を取り払った〝総合芸術〟をもともと志向していたようだ。開店イベントも複数の出し物によって構成されていたが、しかしこの時点ではとくに〝前衛的〟なわけでもない。「ヘニングスともう一人の女性がフランス語とデンマーク語の歌をうたい、ツァラがルーマニアからもってきた詩を朗読し、バラライカの楽団がロシアの歌と踊りを披露するといったもので、たしかに国際的ではあったがどこか観光的で、新しさはたいして感じられなかった」(『言葉のアヴァンギャルド』、以下同)。
 まもなくツァラが、キャバレー・ヴォルテールを舞台とした自分たちの芸術的模索に付与するにふさわしい、「ダダ」という言葉を発見する。「『伝説』によれば、プチ・ラルース辞典にペーパー・ナイフをさしこんで偶然見つけたのがこの語だとされるが、真偽のほどはあきらかでない。『プチ・ラルース』のDADAの項には『幼児語で馬のこと』とある」という。もっとも、実際に「ダダ」を自称し始めるのは、先述のとおり七月になってからである。
 のちの〝ダダ〟っぽい試みがキャバレー・ヴォルテールで始まるのは三月末のことで、ツァラが思いついてヒュルゼンベック、ヤンコと三人で実演してみせた、〝同時進行詩〟と呼ばれることになる詩の朗読パフォーマンスが、ダダ誕生に向かう突破口となった。その名のとおり、三人がそれぞれ別の詩を同時に朗読するというものだ。しかもヒュルゼンベックはドイツ語、ヤンコは英語、ツァラはフランス語での朗読である。「朗読といっても、それは言葉だけでなく大太鼓や口笛も参加する騒々しいパフォーマンスで、(略)舞台は騒然とした雰囲気につつまれるが、テクストの意味内容は各国語でまったく関連がなく、文法的にもかなりいいかげんなもので、聴衆は混線した国際電話を聞かされているような、わけのわからない気分にさせられ」た。
 キャバレー・ヴォルテールでの芸術的実験はこれを決定的契機として、〝意味の破壊〟へと向かう。六月にバルの朗読パフォーマンスによって発表された、〝ガジ、ベリ、ビンバ、グランドゥリディ、ラウラ、ロンニ、カドリ……〟と始まる何の意味もない〝詩〟も有名だ(八五年に宮沢章夫、いとうせいこう、シティボーイズ、竹中直人らで結成された演劇・お笑いユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」の名称も当然これに由来しているはずである)。ただしバルはこの直後、ツァラたちの一派から一時離脱し、キャバレー・ヴォルテールも閉めてしまう(だから第一回「ダダの夕べ」は別の場所が会場となっているわけだが、バルもその時点まで「夕べ」自体には参加している。翌一七年三月になって復帰し、キャバレー・ヴォルテールと同じ場所に改めて「ギャラリー・ダダ」をオープン)。
 そしてついに七月、初めて〝ダダ〟の名を冠した第一回「ダダの夕べ」が、前記のとおりマイゼ・ホールで開催される。ここでツァラが朗読した「アンチピリン氏の宣言」が、のち〝最初のダダ宣言〟と呼ばれることになる。〝最初の〟と言うからには〝二つ目のダダ宣言〟が存在するわけだが(実際には二〇年十二月までに七つの〝宣言〟が発表される)、ふつう〝ダダ宣言〟という時には翌々一八年七月の「ダダ宣言一九一八」を指し、つまりこの〝最初のダダ宣言〟は、〝マニフェスト〟としてはまだあまり洗練されていない。いずれにせよ、まずは一六年七月に、ツァラが主導する〝意味の破壊〟の芸術実践に「ダダ」という名前がつけられたのである。
 「ダダはぼくらの強烈さだ。それは一貫性もなしに銃剣を打ち立てるドイツの赤ん坊のスマトラ頭。ダダはスリッパも地図の緯度の線もない生活だ。それは統一に反対で賛成で、未来にはきっぱりと反対する」と宣言は始まるが(以下、基本的には『言葉のアヴァンギャルド』から、必要に応じて小海永二・鈴村和成訳の『七つのダダ宣言とその周辺』から引いたり、両者をミックスしたりする)、何を言わんとしているか理解できないのは当然だろう。〝意味の破壊〟の実践として故意にワケの分からない詩句が並べてあり、ところどころに何か言いたげなフレーズが混じる。始まりの部分に関して言えば、「◯◯に反対で賛成」という言い方はいかにもダダ的で、何かをめぐって対立がある時に、その何かに賛成だとか反対だとかいう以前に〝そもそもそれは本当に重要な問題なのか?〟とメタ・レベルからちゃぶ台を引っくり返すような振る舞いは、ダダの得意とするところだ。
 「未来にはきっぱりと反対する」というフレーズも意味ありげである。この時期、前衛芸術の文脈で、未来派の存在を念頭に置かずに「未来」という語を発することなどありえまい。つまりここではおそらく、〝我々は未来派には与しない〟という意志が表明されている。それはもちろん、未来派がファシズム運動(という名前がつく以前のプレ・ファシズム運動)と一体化していることと関係していよう。〝ファシズムだから〟反対なのではない(そのことは後で紹介するエピソードからも推測できるはずである)。仮にマルクス主義やアナキズムの運動と一体化していたとしても〝反対する〟と言ったと思われる。つまり何であれ、イデオロギーなり善なり真理なりに与することに反対しているのだ、と受け取るべきだろう。そしてこの〝最初のダダ宣言〟ではまだそこまで感覚が研ぎすまされてはいないが、もう少し後の時期のツァラであれば、そのように言ったそばから〝反対することにも反対だ〟などと付け加えるはずである。

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