『全共闘』(6)

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その6」は原稿用紙換算22枚分、うち冒頭11枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその11枚分も含む。

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(第1部 全共闘以前 第1章 「世界戦争」の時代)
(4.アナキズムとファシズム)


  ナチズム

 ドイツのヒトラーの場合は、ムソリーニとは違って政権獲得は選挙での勝利による。しかしこれもまた、ヒトラーが民主主義の価値を重んじていたからだとは言えまい。ヒトラーは、革命などというものは政権を獲ってからやればいいのだと嘯いていた。むしろ民主主義などハナからバカにして、いいように利用しつくすべき手段と割りきり、嘘でも方便でも大衆が喜びそうなことなら何でも口にすることで、ひたすらの議席拡大に邁進したのだろう。
 ナチズムの出発も、ムソリーニの「戦闘ファッショ」と同じく一九一九年のことである。その年の初めに結成されていた「ドイツ労働者党」に、十月、ヒトラーは五五人目の党員として加入した。「しかし実際にはシンパも含めた最大動員数が四〇〜五〇人程度で、そのうち本当の活動家はわずか六名程度というちっぽけな政党であり、(略)このため入党と同時に党の実行委員会の七番目のメンバーになったヒトラーは、直ちに『宣伝係長』すなわち党の政治宣伝の責任者という幹部活動家としての任務を引受けることになり、ここに『煽動政治家ヒトラー』としての活動が始るのである」(長沼博明『ファシズム革命』、以下しばらく同)。
 党名に表れているように、ドイツ労働者党ももちろん社会主義政党である。ただしマルクス主義には反対の立場をとった。創設者のドレクスラーは、「新しい形態の社会運動をめざして『労働者的であると同時に国家主義的である政党を創ること』を意図し」たのだという。
 ヒトラー自身には左翼経験はないが、ロシアの次はドイツで革命が起きると考えられていたほどの左翼最盛期のことだから、必然的にそれなりの影響は受けている。ヒトラーは最下層の労働者であり、かつ政治的な議論がそもそも大好きで、建築現場の労働者仲間たちに社会民主党系の労働組合に入るよう熱心なオルグを受け、しかしマルクス主義には反感を持っていたヒトラーは改めて左翼系のパンフを読み漁って猛勉強した上で、反駁して誘いを断り、足場から突き落とされそうになって左翼への憎悪をますますかき立てられたそうだ。以後もヒトラーは、競争相手として共産主義を常に意識した。
 ヒトラーは実は一種のスパイとして、蠢動する大小無数の政治団体の一つであったドイツ労働者党の内情を探るよう軍の上官に命じられてその集会に参加し、ミイラ取りがミイラになった挙句にほどなくミイラたちの指導者となる(二〇年二月にヒトラーの提案で「ドイツ労働者党」は「国家社会主義ドイツ労働者党」すなわち「ナチス」へと改称、さらに翌二一年七月にヒトラーが党首に就任する)のだが、エルンスト・レームも、こちらは軍参謀部の大尉として、「当時の軍の方針にそって愛国的民間団体を軍の予備部隊として育成する仕事を受けもって」おり、ドイツ労働者党にもヒトラーより先に接近し、党員となっていた。「レームは生まれてまもないナチ党に、自分の〝顔〟を使用して、多くの除隊軍人を引き入れたり、他の右翼団体からメンバーを引きぬいてドイツ労働者党に入れたりし」、これを「突撃隊」として組織して、やがてナチス〝右派〟の領袖となる。
 ヒトラーが反ユダヤ主義に傾くに際して決定的な影響を与えたのは、ドレクスラーであるよりも、やはり党創設メンバーの劇作家ディートリヒ・エッカートであったらしい。エッカートはヒトラーより二十歳以上も年長で、しかも早死にするので交流は三年間にも満たなかったが、「当時エッカートは、ユダヤ人への憎悪を煽る論調の週刊新聞『アウフ・グート・ドイチェ』を発行し、反ユダヤ主義の書籍専門の出版社ホーエンアイヒェン社の共同出資者で」(福田和也『二十世紀論』)、さらに「演劇の批評家として、また劇作家として、バイエルンの演劇界では著名な人物であり、精神的な面に限っていえば、初期ナチズムとヒトラーに最大の感化を与えた人物であった」(長沼『ファシズム革命』)という。つまり芸術家でもあったエッカートは、その面でヒトラーに与えた影響も大きかったはずだと長沼は分析する。

 ナチズムとは象徴的にいえばヒトラー主義以外のなにものでもないが、しかしそれを運動内容からみると、ドレクスラーの国家主義的で一見プロレタリア的な綱領的路線、エッカートの芸術的(劇作家的)センス、そしてレームの準軍事的な突撃隊主義、この三者の綜合形態において形成されているのである。
 (『ファシズム革命』)

 レームに代表されるナチス〝右派〟がいるからには当然〝左派〟もおり、その指導者として知られるのがシュトラッサー兄弟である。ファシズムは思想的には要するに実存主義と民族主義と社会主義の混合物だが、うち実存主義に軸足のある〝右派〟に対して、〝左派〟はむろん社会主義的要素つまり反資本主義の問題意識に軸足を置いている。云うまでもないが、この場合の資本主義とは〝国際ユダヤ資本〟に象徴されるようなそれである。当時の反ユダヤ主義は最近で云う反グローバル資本主義のニュアンスが強く、だから反ユダヤ主義は必ずしも右翼の専有物ではなかったのだが、それは措く。ナチス左派は、党首ヒトラー個人にではなく、社会主義的な項目も多く含むナチス党の綱領に忠誠を誓っており、むしろ党内においては公然たる反ヒトラー派であったようだ。最後までヒトラーに付き従う宣伝相ゲッベルスや親衛隊長ヒムラーも、そもそもの出自は左派だった。
 このようにナチスですら、広く流布しているイメージとは異なって、決して一枚岩の画一的な組織ではないわけだが、しかしその程度のことは、単にスターリンや毛沢東の〝コピー〟である以外の幹部など見出しがたい共産国の独裁政党とは対照的に、ゲッベルスをはじめ個性的な〝サブキャラ〟に事欠かないその様相を思い浮かべてみれば、容易に推測できそうなものだ。
 とはいえ実はナチスは、ドイツのファシズム運動において本来はむしろ傍流である。初期ナチスの運動は二三年十一月のミュンヘン一揆の失敗によっていったん頓挫し、ヒトラーは獄中でそれまでの運動を総括して(自伝『我が闘争』もこの時に口述筆記されている)、今後は武装蜂起的な方向ではなく合法的な選挙活動を通じて政権獲得を目指そうと方針を転換、周知のとおり以後ナチスは怒濤の快進撃で三三年一月のヒトラー政権誕生へと至るわけだが、まさにその〝選挙を通じて……〟という方針によって、ナチスは、武装蜂起路線の右翼革命派つまりファシズム主流派からは異端視されることになる。
 反ナチス的な武装闘争路線の右翼革命派を象徴する人物が、エルンスト・ユンガーである。

 ユンガーは[第一次大戦の]ソンムの会戦からドイツ軍最後のルーデンドルフ大反攻まで最前線で戦い、全身に十数度の重軽傷を受けると共に、第一級鉄十字勲章、ホーエンツォレルン家騎士十字勲章はもとより、歩兵少尉としては異例のドイツ軍人最高の「プール・ル・メリット」勲章を、最年少で授与されている。(略)
 ワイマール時代[敗戦からヒトラー内閣成立までの、ドイツ版の〝戦後民主主義〟的なリベラル全盛期]のユンガーは大きく、前半の作家活動期と後半の政治活動期に分けられ、それは二つの代表的著作によって表わすことができる。一つは、大戦での戦闘体験を表現し、今日でも数ある戦争文学の中でも屈指の作品とされる『鋼鉄の嵐の中で』であり、今一つは、一九三〇年代初頭のナチス時代前夜に刊行されたユンガー思想の凝集ともいうべき『労働人。支配と形態』である。この二つの作品を挟んで、初期の戦争作品群があり、政治活動期に書いた百以上の論説、そして「魔術的リアリズム」とも「ドイツ・デカダンス」ともいわれるユンガー文学のカテキズム的著作としての『冒険心』等がある。(略)
 ユンガーの処女作『鋼鉄の嵐の中で。一特攻隊長の日記より』が刊行されたのは一九二〇年であり、最初は二五歳の少尉の自費出版として出され、(略)以後、『百二十五号の森。一九一八年塹壕戦の記録』(一九二四年)、『火と血。大会戦の小断片』(一九二五年)、さらに(略)戦争体験の小説的試み『シュトルム』等を著わし、それらの作品により、彼は作家としての地位を確立していく。ユンガーは、トーマス・マンに次いでよく読まれた作家であり、とりわけ『鋼鉄の嵐の中で』は最も多くの読者を持ち、これを上回るのはわずかにトーマス・マンの『ブッデンブローグ家の人々』だけだと評されている。
 (略)しかし、彼の名が一般の図書市場で知られるようになったのは一九三〇年前後の、所謂「戦争文学の波」の時期であり、(略)それ以前のユンガーの読者は、ほとんどが戦争から復員しながらも、市民生活に馴染めなくなっていた人々だった。例えて言えば、履歴書には軍歴以外に記す経歴がなく、特技は「歩兵突撃戦指揮」、賞状は「第一級鉄十字勲章拝受」としか書けず、経理か営業社員を求めている会社に出かけ、どこにも雇ってもらえないような元将校や、昨日までは突撃隊だった歴戦の下士官・兵士であり、そうした元軍人を主要メンバーとし、ドイツ内戦やバルト地方、(略)オーバーシュレジエンのアンナベルクの丘をめぐる戦いを転戦したロスバッハ義勇軍やエアハルト旅団をはじめとする無数の義勇軍(フライコール)、(略)ラーテナウ暗殺で知られる「執政官(コンスル)」をはじめとする各種の極右武装組織、百万の団員を数えた「前線兵士同盟」の鉄兜団(シュタールヘルム)、そしてナチス党、さらにはブントと呼ばれた青年運動の人々だった。つまり彼の作品は、当初は文学としてではなく、(略)元軍人の戦争体験記や、かつて新左翼専門書店にあった「過激派」の闘争体験記のような形で読まれていたわけである。(略)読者の世界は限られていたとはいえユンガーの作品の人気は相当なものであり、戦後の混乱とインフレの中で「失われた時を求めて」彷徨し、時代から追放された戦争帰りの青年たちにとってユンガーは「時代の精神的指導者」であり「ドイツ魂の最高司令部」とされた。
 (千坂恭二「ドイツ・ナショナリズムの史的状況」
  /『東大陸』創刊号・91年、以下しばらく同)

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