栗原康『現代暴力論』“検閲”読書会(2017.3.26、4.2)その3

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その2」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2017年3月26日と4月2日の2回に分けておこなわれた、栗原康の『現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す』(角川新書・2015年)を熟読する読書会のテープ起こしである。
 栗原康の『現代暴力論』の現物を入手して、途中ことわり書きが挟まるように、例えば「第一章・黙読タイム」などのところでまず当該の章を自分でも黙読してから読み進む、というのが一番タメになる読み方である。

 第3部は原稿用紙18枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその6枚分も含む。

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 (引き続き「第一章 国家の暴力」をめぐっての議論)

 誰に向けて書かれてるのかよく分からない

外山 ……しかし何と云うか、とりあえず「第一章」を読んだかぎりでは、少なくともアナキスト的には“ごくフツーのこと”を書いてるだけですね。“アナキズム”なんてものに接したことのない人に向けて、アナキズムを噛み砕いて分かりやすく説明しようとしているという、それ以上のものではない。

B女史 私もここに書かれているのはすごく当たり前のことのように思います。そういう当たり前のことを、まるで子供に説明するように丁寧に丁寧に書いてくれているんだなあ、というのは分かるんですけど、こんなふうに書かなければ多くの人には理解されないんでしょうか?

外山 うん、実はぼくが読んでて疑問に思うのは、“フツーの人向け”に書いているんだろうけど、そもそも“フツーの人”が『現代暴力論』なんてタイトルの本を手に取るのか、っていう……(笑)。こんなタイトルや副題の本に興味を持つような人というのは、すでにかなり左傾した人である可能性が高いと思うんだよ。で、そういう人向けに書くとすれば、こんな“当たり前の話”は全部省略していいはずなんだ(笑)。

A女史 たしかに誰に向けて書かれてるのかよく分かりませんね。

B女史 さっきも云われてましたが、副題に“あばれる力”って平仮名で入ってて、そこらへんにやっぱり、“フツーの人たち”に興味を持ってもらおう、取り込もう、あるいは“フツーの人たち”に寄り添おうって意志や願望が表れてるのかなあ、と。

外山 漢字を平仮名に変えれば人民が喜ぶとでも思っているらしいという、つまり“間違った大衆迎合”なんだよな(笑)。大衆に迎合することの良し悪しは措いといて、大衆迎合の方法としてちっとも有効ではない。
 ……90年前後、ぼくが20歳ぐらいの頃に、大人たちの既成の市民運動のこういう“間違った大衆迎合”を、ぼくらはさんざんバカにしてたんだ。昔の学生運動みたいな暴力的なイメージで見られたくないんでしょう、頑張ってソフトな印象を与えようとしてるつもりなんだろうけど、その方法というのが例えばヌイグルミをかぶってビラをまくことであったり(笑)、あるいはその時期にヒットしてた曲を替え歌にして、「なんてったってアイドル」を「なんてったって反原発」っていう鳥肌が立つような恥ずかしい歌詞に換えるとか(笑)、ことごとくどうしようもないんだよね。
 そこまでヒドくはないにしても、どうも方向性としては同じようなものをこの栗原康という人の文章からは感じてしまう。書いてある内容は、良くも悪くもオーソドックスなアナキズム論で、そういう意味では決して“日和ってる”わけではないけど、こんな本を手に取るようなタイプの読者にはわざわざ説明するまでもないことをわざわざ説明してるところとか……つまり“一般の人たち”に興味を持ってもらいたいという、そのそもそもの入口のところで失敗していることに無自覚なんだよな(笑)。

B女史 それはちょっと感じますね。


 自らがヘナチョコであることをむしろアピール

A女史 何かヤラしい感じもするのは、自分のことを“弱っちくて、頭が悪くて”みたいなふうに云いすぎなんですよ。だって頭が悪いわけないでしょ、大学の先生なんだもん(笑)。こういう云い方をされるとちょっとムカッとくる。

外山 “頭が悪い”みたいなことも書いてありました?

薙野 最初の最初、さっきの「はじめに」の冒頭で……。

外山 それは“弱っちい”のほうでしょ? “頭も悪い”とか書いてあったかな?

A女史 あれ? なかった?

外山 そんなことも書いてあったような気がしてくること自体は理解できる(笑)。

薙野 外山さんが作った読書会のビラに“ヘナチョコ文化人”が云々と書いてありましたけど、たしかにこの人もヘナチョコな感じがするんです。

外山 うん、自らがヘナチョコであることをむしろアピールしてくるような印象は受けるよね。だから“弱っちいし、頭も悪いし”と本人が書いてないことまでついこっちの脳内で補ってしまうのも分かる(笑)。

A女史 何かもう、ウザいんだよ(笑)。自分を卑下することによって、こっちに寄り添おうとしてくる感じが鬱陶しい。

外山 “自分たちも読者の皆さんと一緒ですよ”的な?

A女史 そうそう。

外山 たしかにそういうアピールは感じるし、良くない姿勢だとぼくも思う。


 内容より文体が気になる

西南大H だから書いてある内容より文体が気になるんです。文末で「やってられない」とか、「えらい」とか……。

A女史 前回の森元斎さんの読書会のテープ起こしを読むと、そういうオドケた感じの文体について誰かが“気が散る”と云ってたけど、ほんとそう思う。気が散る(笑)。

外山 みなさんいろいろ云いますけど、森元斎の文章を読んだ後だと、栗原康の文章はすごくマトモに見える(笑)。これは錯覚なのか? かなりキッツイのを覚悟してたのに、意外とちゃんとした文章だなあと思いながら読んでたんだけど……森元斎のせいか(笑)。

A女史 ……“人民に分かりやすく知らしめよう”って姿勢で書いてる文章だからなのかもしれないけど、書き手自身の“心もよう”を書きすぎじゃない? もうちょっと社会のメカニズムの分析とかのほうを詳しく書いてほしい。なんか“ポエミー”なんだよね(笑)。

B女史 幸徳が書いた文章をめちゃくちゃ噛み砕いてこの人なりに云い直した結果として、Jポップの歌詞みたいになっちゃってて、恥ずかしくて震えてきてしまう。

外山 そうは云うけど森元斎よりマシですよ(笑)。

西南大H 大衆に迎合しようとしてるのに、大衆のことをナメてますよね。

外山 うん、まあそういうことだと思います。

A女史 ほんと、そう思う。そこが何かイヤなんだよ。

外山 ヌイグルミをかぶったり、恥ずかしい替え歌をやったりするのも、大衆をナメてるからなんだ。この人もたぶん、“語り口”とか“用語”を平易にすればいいって問題ではない、ということがあまり深刻には身に染みて分かってない。


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