『全共闘』(17)

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 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その17」は原稿用紙換算27枚分、うち冒頭13枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその13枚分も含む。

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(第1部 全共闘以前 第2章 草創期の左翼学生運動 2.東大新人会)


 前期新人会

 宮崎龍介は一八九二年生まれで、「東西両大学聯合演説会」で宮崎らをヘコませた京大側の高山義三、田万清臣らと同い年ということになる。むろん宮崎自身もかなりのビッグ・ネームとなっていくのだが、父はもっと有名な、日本近代史の最重要級の革命家の一人とも言える、かの宮崎滔天である。
 滔天がいかに偉大な人物であるかについては加藤直樹『謀叛の児』に譲るが、とりあえず滔天は、孫文らによる中国革命を強力に支援した〝大陸浪人〟として知られている。長男・八郎は「熊本民権党」の指導者ながら西南戦争で鹿児島の西郷軍に身を投じて戦死、次男・伴蔵はロシアに渡ろうとし(ただし果たせぬまま夭折)、三男・民蔵は大逆事件に危うく連座しそうになり、四男・弥蔵は五男・寅蔵(滔天)と共に中国革命支援に奔走したという、まさに〝革命ブラザーズ〟の末っ子でありかつ真打ちである。やはり孫文らを支援した頭山満や北一輝らの活動に(〝アジアの同胞〟としての連帯意識も当然あったろうとはいえ)どうしても〝日本の国益〟という中国側からすれば不純な動機がチラつくのに対して、滔天の眼中にそんなものは一切なく、さらに言えば〝中国革命〟さえ滔天には本当はどうでもよかった。弥蔵と滔天は、当時の民権派にあってまったく例外的に〝ナショナリズム〟を欠片も有しておらず、〝アジア主義〟すらもなく、ただただ全人類を圧制から解放する〝世界革命〟のために、その起爆剤になりうると確信した中国革命を全力で支援したのだと加藤は論じている(「もしブラジルこそが世界革命の拠点にふさわしいということであれば、弥蔵は躊躇なくブラジル革命を唱えたに違いない」)。結果として(弥蔵は志半ばで病に斃れるが)宮崎滔天は、あらゆる留保抜きで中国側から感謝される数少ない日本人となる。
 ともかく、その滔天の子が宮崎龍介である。幼少期には滔天はほとんど熊本の家にはおらず、妹弟と共に母親の手で育てられた。十三歳の時(〇五年)に家族で上京して、もとより主に東京にいた滔天と共に暮らし始める。妻子をずっと放ったらかしてきた父には反感を持っていたが、気持ちは次第に変化した。「きっかけは、なぜか家にしきりに出入りする中国人の若者たちの姿だった。しかも彼らが一様に、この酒飲みの父を尊敬しているらしいことが不思議でならなかった。おまけにしばしば私服刑事が訪れる。上京して数カ月後には、家宅捜索も経験した。龍介はようやく、父の仕事が『只事でない』ことに気づき始めた」(『謀叛の児』)。〇〇年に孫文が二回目の挙兵に失敗して、滔天の中国革命支援もいったん頓挫し、何を思ったか滔天はまもなく〝浪曲師〟に転向、デビューに際しての話題作りのために発表した自伝『三十三年の夢』が評判となって、〝本業〟とした浪曲師稼業の傍ら、すでに文章も精力的に書くようになっていた時期である。革命家としては〝引退〟した気分でもいたのだろうが、『三十三年の夢』が中国で勝手に翻訳されて出回り、中国の若者たちを熱狂させ(中国で孫文が有名になったのは、そもそもこの『三十三年の夢』のためであるという)、うち日本に留学してきた学生たちが〝浪曲師〟滔天の寄席に通い始め、やがては自宅にまで出入りするようになっていたのである。龍介が上京したこの同じ〇五年、各国を渡り歩いて亡命生活を送っていた孫文が久々に日本を訪れた際、滔天が、独自の革命組織を率いていた中国人留学生・黄興を紹介したことで「中国同盟会」が結成され、これが一一年の辛亥革命を中心的に担い、やがて「中国国民党」へと改組されるわけだが……滔天の活動の話は措いて、龍介が、こうした〝家庭環境〟に強く影響されないはずもあるまい。
 一高時代に結核に罹って進級が遅れ、宮崎龍介が東大法学部に入学するのは一六年のことで、他の二人、一五年入学の赤松・石渡よりも学年は一つ下となる。
 石渡春雄は、東京・浅草の出身だが、鹿児島の七高(現・鹿児島大)を経て東大に進学している。一八九二年の早生まれのようで、学齢的には宮崎よりも一つ上、麻生久や山名義鶴と同じであり、進級が遅れたか、浪人したのだろう。「新人会結成以前から社会主義的文献を読みはじめていたらしい」(「『新人会(前期)』の活動と思想」)。やがて政治的な活動からは身を引いて消息が途絶えるからか、石渡に関する資料は少ないのだが、二八年二月の第一回普通選挙、三〇年二月の第二回普通選挙には労働農民党から出馬しており、いずれも落選している。当時の合法無産政党の中では最左派の労農党に深く関わっていたわけで、一九年の卒業後も少なくとも十年あまりはオーソドックスな〝社会主義者〟であり続けたのだと思われる。
 そして赤松克麿である。
 赤松は一八九四年生まれで山口県出身、これまたある種の〝名家〟の御曹司ということになるのか、母方の祖父は浄土真宗の高僧であるらしい。実家は祖父から引き継がれた寺で、両親ともに「宗教家にして社会事業家でもあっ」て、つまり「社会で虐げられた人々を慈しみ、困窮した弱者の救済活動に献身していた」というから、宮崎同様、〝家庭環境〟から受けた影響は大きかろう。「ほかに六人の兄妹がいたが、いずれも哲学者、医学者、洋画家、社会運動家の道に進むなど」して、名を成している(以上、福島良一「赤松克麿における政治志向の芽生え」)。
 赤松もまた例によって一九一一年、徳山中(現・山口県立徳山高校)の四年(今で言えば高一)の時に、自治権を要求するストライキの先頭に立っており、しかし赤松の場合はそれが原因で退学処分となった。かといって落胆するでもなく、もともと成績優秀だった赤松は、半年ほど独学すると、今で言う高卒認定試験のようなものに合格し、一二年九月には三高に進学することになる。旧制中学は五年制だが(つまり現在の中一から高二にあたる)、四年(現在の高一)修了時に試験を受けて旧制高校(現在の高三から大二)に進学する〝飛び級〟のしくみもあって、赤松は期せずしてそれと同様のコースを辿り、年上の石渡とも、やがて東大に同年の入学となるのである。
 「赤松の三高合格は、彼を退学せしめた徳山中学校に対する町の評判を悪化させ」たらしく、悪ノリした赤松はこのムードに便乗し、別人を装って「硬骨野人」なるペンネームで地元新聞に学校批判の文章を投稿、徳山中時代の同志でやがて東大新人会にも加わる荘原達(とおそらく林要ら)が「その投書欄を切り取って学校の講堂に貼りつけ学校当局の責任を追及した(略)結果、校長および悪評ある教師が学校を追われることになった」(同)。実は赤松は後年、日本における「国家社会主義」つまりファシズム運動の創始者の一人となるのだが、私もまた、私を事実上の退学処分とした学校当局を徹底批判する著作を、同級生たちがまだその高校に通っている時期に刊行して地元メディアを騒がせた過去があり、ちょっと他人の気がしない。
 三高では、やはり弁論部に属した。赤松が一年生だった時の弁論部の三年生たちが、つまり麻生久、棚橋小虎、山名義鶴ら「縦横会」の面々である。当然この時点で面識ができているし、また影響も受けている。二年生には前出の末川博がおり、実は赤松の兄・義麿(やはり東大に進み、やがて洋画家)の同級生でもあったが、末川は、むしろ同じ弁論部の克麿のほうと親しかったようだ。これもすでに述べたように例の「第一次護憲運動」=桂太郎内閣打倒運動の高揚期であり、弁論部全体が大いにその熱に呑まれ、これに絡んで縦横会主導の〝校長排斥運動〟もあって、赤松もますます政治的関心を逞しくする。この時期に赤松は早くも政治家を志すようになり、また末川にも(実際には末川は著名な民法学者となるが)政治の道に進むよう説いたという。
 繰り返しになるが、赤松と石渡が一五年、宮崎が一六年に東大法学部に入学してくる。いずれも弁論部に属し、一八年十一月の〝吉野作造博士vs浪人会〟の時期にはその中核を成していたこともすでに述べた。正確には、米騒動直後の新学期というからおそらく一八年九月、弁論部の委員改選があり、一高から八高(現・名古屋大)までの出身高校ごとに代表を選ぶシステムらしいのだが、一高から宮崎、三高から赤松、七高から石渡が新委員として選出されたわけだ。赤松・石渡は三年生、宮崎は二年生である。新委員らはまず十月の「東西両大学聯合演説会」に臨み、とくに赤松ら三人が〝東大の遅れ〟にショックを受けて、京都からの帰路の車中、弁論部とは別個の、何らか〝実践的〟な新団体の結成を誓い合う。
 さっそく「普選研究会」を名乗って同志の募集を始め、相変わらず吉野作造を指導者と仰いで、約三十人が参加する会合を二、三回開いた程度で、活動がまだ軌道に乗らないうちに、〝吉野vs浪人会〟の一大騒動が巻き起こった。なお、このごく初期の段階ですでに赤松は、三高でも東大でも弁論部の先輩である麻生との結びつきを強め、「水曜会」に顔を出すようにもなる。いっぽう宮崎も、これはこの同じ一八年の二月の時点で、星島二郎の『大学評論』の編集スタッフに加わっていた。
 これまたほぼ前記のとおり、「一九一八年一一月下旬に新人会結成のことについて、赤松、石渡、宮崎の三人がほとんど毎日、大学の門前に新しくできた『鉢の木』という洋食屋の二階に集って、一週間程討論を続けた結果、結局学内に同志を求めることとして、新人会という会名で学内の掲示板に(略)綱領と短い説明文をはり出」す(「『新人会(前期)』の活動と思想」)ことになる。綱領は、「一、吾徒は世界の文化的大勢たる人類解放の新気運に協調し之が促進に努む。一、吾徒は現代日本の正当なる改造運動に従ふ」というものである。
 ほどなく、さらなる宣伝と会員募集のための集会がもたれ、二十余名が集まったのが、資料によって十二月五日とも七日ともされる。言い出しっぺの三人が「普選研究会や緑会弁論部から一歩前進しなければならない旨を力説」(同)すると、一・二年生が五名ずつ計十名がその場で加盟した。のち著名となるメンバーに例えば、二年生では経済学者の波多野鼎、政治学者でジャーナリスト(朝日新聞論説主幹、熊本日日新聞社長)の佐々弘雄、弁護士の細野三千雄、一年生では社会学者の新明正道らがいる。波多野、細野は敗戦後、社会党右派の国会議員を務め、波多野のほうは片山哲内閣の農相でもある。佐々も敗戦直後に無所属で参院に当選するが、まもなく死去している(そもそも佐々家は戦国時代に活躍して肥後の領主となった佐々成政以来の名門であり、著名な人物を歴代いくらでも輩出している。弘雄の父・友房も西南戦争に西郷軍側として参加、やがて頭山満らと近しい国権派の有力政治家となった人物だし、弘雄については現在ではむしろ、公安畑の元警察官僚として権力側視点で六〇〜七〇年代の学生運動・新左翼運動を回顧した著作で有名な佐々淳行の父、と言ったほうが話が早いかもしれない)。他にも二年生メンバーには、児島健爾(銀行家)、平貞蔵(福岡の私学・第一経済大(現・日本経済大)の、おそらく初代の学長)、一年生メンバーには、門田武雄(敗戦直後の社会党・機関紙編集者としての活躍を経て、広島県福山市の市議、市議会議長、全国市議会議長会・会長。また学校法人・福山学園(現・銀河学院)の創設者)、山崎一雄(敗戦後は社会党の機関紙編集長、東京・大島の岡田村長など)らが含まれる。参加時期は不明ながら、やはり一八年入学の松沢兼人(敗戦後、四六年から七一年まで社会党右派の国会議員。また、新潟短大(現・新潟産業大)、八代学院大(現・神戸国際大)の学長)もおそらく初期からの参加者ではあろう。ここに示したのは主に敗戦後の事績であり(それにしても大学の〝創設者〟や〝初代学長〟となる人物が多い。現在では旧帝大を含む〝名門〟大でも学生運動の存在さえ許さない後進国的圧政が敷かれているのが普通だが、私が常日頃、一部の私立大学でなら〝創設者の権威〟をカサに着て学生運動を正当化し、大学当局による弾圧に対抗しうるはずだと説いている所以である)、もちろん東大卒業直後には、多くは当時の無産政党や労働運動の活動家となっている。

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