反共ファシストによるマルクス主義入門・その12

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  「その11」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多い(とくにこの1つ前の第11部とこの第12部は『共産党宣言』などからの引用が多い)のだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。
 第12部は原稿用紙22枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその6枚分も含む。

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   15.『共産党宣言』(承前)

 マルクス主義の顕著な特徴は、まるで柔道や合気道のように、資本主義それ自体の力を労働者階級の成長と勝利を後押しする力として認識することである。繰り返すが、マルクス主義が強力なる所以もここにこそある。

 労働の質が単純・単調な非熟練労働に純化されていくということは、労働者の間の差異を消し去り、その分だけ団結を容易にするということである。あらゆる地域の労働が均質化され、あらゆる地域の労使紛争が似た姿を持つようになれば、地域を超えた団結、すなわち労働運動の広域化も容易になる。都合の良いことに資本主義は交通や通信の手段を発達させ、それらは徐々に誰にでも使えるものとなり、マルクスの時代にはようやく鉄道が整備され始めた程度であったが、云うまでもなくその後、自家用車や電話や航空機の使用さえ労働者の手の届くところとなり、今や多くの労働者は携帯電話もインターネット環境も手にしている。

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 現代の代表的なマルクス主義思想家であるイタリアのアントニオ・ネグリ(1933〜)とアメリカのマイケル・ハート(1960〜)は共著で『〈帝国〉』(00年)、『マルチチュード』(04年)など数冊を著し、日本のポストモダン左翼の多くにもこのネグリ&ハートの言説は強い影響力を持つに至っているが、かれらもまたマルクス主義の作法に忠実に、資本主義の現代的発展それ自体が新たな革命の前提条件を作り出すという論理構成をとっている。「新自由主義(ネオリベ)」と呼ばれる資本主義の現代的展開が、一方にネグリ&ハートが「〈帝国〉」と呼ぶ体制秩序を作り出し、同時に他方に彼らが「マルチチュード」と呼ぶ革命的変革の“有象無象”的な担い手たちを増殖させる。

 ネグリ&ハートの『〈帝国〉』の翻訳者の1人である酒井隆史『自由論』(青土社・01年)で次のように述べている。

 必要労働時間と剰余労働時間はいまではもう、判然と区別することはできない。ほとんど誰もが程度の差はあれども体験していることかもしれないが、知的労働あるいは非物質的労働は、労働時間と非労働時間とを明確に区分しない。たとえば商品の企画、アイディアをひねりだすという作業。それは、職場から帰ったあとも、飲みに行こうが風呂にはいろうが、寝つくまえのベッドだろうが(もしかしたら睡眠中でも)私たちの生活にとり憑くだろう。この労働は、それが支出する場所も時間も特定することはないのだ。そんな時間のはらむ曖昧さが示す平面が——生活と労働、生産と再生産、私的なものと公的なものとが截然と分かつことのむずかしい——いわば私たちの存在の「零度」である。その平面は、一方では、新しい権力テクノロジーとむすびつき社会総体を利潤生産の場として形成することで「資本による実質的包摂」の完成をしるしづけているし、また逆に他面では資本のコマンド全般から逃れる可能性をもしるしづけている。この平面を利潤形成へと向けて収斂させて解釈するのか、つまり生活への全般的資本の支配として解釈するのか、それともそこから全面的に逃れるための高度の可能性として解釈するのか、それが問われている。

 酒井はもちろん、「生活と労働、生産と再生産、私的なものと公的なものとが截然と分かつことのむずかしい」現代的な労働空間を「生活への全般的資本の支配から全面的に逃れるための高度の可能性として解釈」したがっている。この少し前の部分で酒井は、ベルトコンベア労働に代表される「フォーディズム期」のそれに代わって、日本企業が開発して世界的に参照されるようになった、より合理的に“在庫ゼロ”を目指すために労働者自身に状況に応じた判断を要求する、つまりベルトコンベアという機械の単なる一部品ではなく主体性を持った人間として労働を担うことを要求する「ポスト・フォーディズム」の生産技術に言及した上で、次のように続けている。

 ここで労働者は、かつて、フォーディズム期において工場労働では否定されていた構想の要素をそなえることを要求される。労働者はいわば「インターフェイス」(ネットワーク組織論のいう「媒介的企業者」)とならねばならず、さまざまな機能、情報のフロー、ワーク・チーム、ヒエラルキーのあいだを臨機応変に横断し、選択、連結、切り捨てをおこなわなければならない。労働者は知的スキル、肉体的スキル、(自ら協同関係を組織、運営/管理するという意味で)アントレプレナー的スキルを自身のうちでむすびつけなければならない。その意味では、以上の特徴が現代において主流の情報、サーヴィス、文化産業という物的生産に主眼を置くのではない「非物質的労働」のきわだった特徴であるとしても、その特質は「物的労働」をふくむすべての労働形態が共有するものとなるといえる。

 総合して極めて乱暴に酒井のビジョンを要約すれば、現代において資本が要求してくるさまざまの“スキル”(IT知識とか語学力とか「コミュ力」とか)を仕方なく身につけた労働者たちが、それらのスキルをそのような現代資本主義との闘争を組織することに活用し始める可能性、ということだろう。もちろんこれはネグリ&ハートが示唆するヴィジョンでもあり、彼らはまさしく“マルクス主義的に”、すなわち資本主義それ自体の力を合気道的に使って資本主義を倒すことができる(というより“必然的に”そうなる)と考えているわけだ。

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