2007〜2011、日本で起きた知られざるスクウォット(建物占拠)闘争(その2)

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その1」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 ※当記事はもともと有料記事でしたが、スポンサーがついたので無料公開に切り替えます。「多くの人に読ませたい良い記事なので、私が丸ごと高額で買い上げるから、無料公開としてほしい」という奇特な方が現れたわけです。すでに有料で買ったという方には心苦しいんですが……。

 インタビューは2015年12月30日におこなわれ、紙版『人民の敵』第16号に掲載された。

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 ラ・サールの九州での特殊な存在性格

外山 鹿児島におけるラ・サールの存在って、かなり特殊ですよね。そもそもあんまり“鹿児島の高校”って感じがしない。

有川 実際ヨソから来た人たちばっかりだもん。3分の2は県外から来てたと思う。しかも卒業するとまたヨソへ行っちゃう。

外山 たしかに。“地元に根づいてる”って感じもしませんね。あの谷山(鹿児島市の副都心的な、ラ・サールからもほど近い繁華街)の辺りが、ラ・サールの生徒たちの一種の“学生街”みたいになってるわけでもないんですか?

有川 たまにメシを食いに行くぐらいかな。地域との交流はあんまりない。たまたまラ・サールがあるからその辺に住んでるだけで……。

外山 やっぱり妙な存在だと思うなあ。九州にある“全国区”のものって、たぶんラ・サールだけなんです。九州大学なんか、東大や京大と違って“地方”的な存在でしかないでしょう? しょせんローカルな大小の結集軸があちこち散在してるだけで、ラ・サールだけが特殊。しかもそれが福岡ではなく鹿児島にあるっていう(笑)。

有川 ラ・サールからは、九大に行くとしても医学部だけだもんね。それ以外の、例えば熊大医学部に行くとかってのは、イレギュラーなもの。

外山 勉強をサボった奴が……。

有川 うん(笑)。

外山 ぼくも経験上よく分かるけど、進学校に行くと優等生ばっかり集まってて、その中でまた競争になるから、それまでの優等生としてのアイデンティティが揺らぐんですよね。もうなかなか成績で1番になれたりしないから、モチベーションを見失って、勉強しなくなって、やがて優等生コースから脱落してしまう。普通の公立中学に通ってればずっと優等生でいられたかもしれないのに、名門校に入ることで却って“東大”とかが遠くなる(笑)。

有川 まあそれでもラ・サールで落ちこぼれたとしても、そこらへんの国立の大学にはまず入れるけどね。

外山 鹿児島の他の高校との交流はないんですか?

有川 ないね。やっぱりあまりにも異質なんだろうな。部活をやってる人には多少あるかもしれないけど……。

外山 そういえば加治木高校(外山が通った“2つ目の高校”。鹿児島市から約30キロ離れた郡部にある)の文芸部は、ラ・サールの文芸部との交流もあった。ぼくはすぐ問題を起こして追放されちゃったんで、その場面には立ち会わなかったけど(笑)。

有川 でもやっぱりいろんな面でレベルが違いすぎるし……。

外山 おそらく他校の人は、かなりヨソヨソしい感じで接してきますよね(笑)。

有川 それにさっきも云ったように、実際ヨソ者ばっかりなんだもん。東京から来てる人、関西から来てる人、いっぱいいた。

外山 稲葉さん(後註.69年生まれで、東大ノンセクト経由の“反貧困”活動家・稲葉剛氏。高校時代に外山とごく薄く接触があった)もたしか広島の人だったな。

有川 あと、医者の息子ってのが多かったり、高級官僚の息子も多い。私がわりと親しかった友達も、防衛庁の官僚の息子だった。そういう家庭環境の高校生なんか、鹿児島にまず他にいないもんなあ。福岡だってそんなにいないでしょ? なぜかそういう特異な共同体が、鹿児島の郊外にポツンと存在してるっていう……(笑)。

外山 鹿児島市議選に出た時も、ラ・サールの生徒だけやたら反応が良かった(笑)。

有川 あの時に外山君が選挙用に借りてたアパートのすぐ裏の辺りに、私は下宿してたんですよ。


 1浪を経て東大、そして中核派へ

外山 ……部活はやってたんですか?

有川 やってない。

外山 高校時代のうちに、もうかなりはっきりと左傾するんですか?

有川 うーん……そもそも私は左翼だったことがあるのかどうか、我ながらずっと疑問なんです(笑)。高校2年の時点でもう東大に合格できるような成績で、英語と物理は全国模試とかで常に1位だったし、全科目総合でも10位以内にいたから、わざわざ学校に通う意味も感じられなくて、授業も聞いてないし、ノートもとらないし、そもそも学校にあんまり行かないし(笑)、完全に変人だよね(笑)。

外山 何をして日々を過ごしてたんですか(笑)。

有川 本を読んだり、あとは散歩かなあ。

外山 何を読んでたんですか?

有川 それはさっき云ったような第三書館の本とか、本多勝一とかだよね。それぐらいの学力があれば英語の本も読めるし、バートランド・ラッセルとかは原書で読んでた。あとは映画の原作本とか……本多勝一は大学に入ってからだったかな? 

外山 東大には現役で入るんですか?

有川 それが1回失敗するんです。その年の数学が、なんかヘンな出題で、数学マニアみたいな人以外はあまり得点できないようなものだった。それで落ちちゃう。

外山 数学はあまり得意な方ではなかったんですか?

有川 そういうわけではないんだけど……普通の出題なら大丈夫だったと思う。浪人時代は全然勉強しなくて、学力は当然落ちてたはずだけど、それでも翌年は受かったわけだしね。

外山 浪人時代は東京ですか?

有川 うん。駿台予備校なんだけど……やっぱり通ってないんだ(笑)。駿台に行かずに、その近くの神保町の古本屋にばかり通ってたなあ。

外山 中核派に接触するのは大学に入ってからですか?

有川 浪人時代は西日暮里に住んでたんだけど、大学に入ってから杉並に引っ越した。荻窪ね。杉並は中核派の拠点でしょ。ちょうど都議選をやってたんだ。それ以前の段階で「やっぱり革命が必要だ」と思うようになってたから、こっちから接触したの。

外山 都議選というのは、要するに長谷川英憲(67年から89年まで杉並区議を6期、89年から93年まで東京都議を1期務めた、中核派の議会政治部門を代表する人物。おそらく有川氏が「都議選」と云っているのは記憶違いで、年代から考えて杉並区議選であったはずである)の選挙ですね。

有川 うん。

外山 たしか都議も当選して、1期務めてますよね。

有川 都議になってからは、結柴誠一って人が後継の区議になってるし(91年以来、都議への転身を図り失敗した一時期を除いて、現在まで通算7期を務めて現職)、杉並区はずっと中核派の拠点なんだ(他に新城節子という女性区議もいる。ただし06年の中核派の分裂に際して結柴・新城は中核派を離脱)。

外山 「都革新」(都政を革新する会。中核派の選挙用政治団体)ってやつですね。今でもそこにあるのかどうか知らないけど、高円寺駅の近くに事務所があったのを覚えてます(現在は上高井戸に移転しているようだ)。

有川 で、こっちから接触して……。

外山 それは前進社(中核派の公然拠点)に電話して、とかではないですよね?(笑)

有川 駅前で選挙運動をやってるところに、「ちょっと興味があるんですけど」って話しかけた。


 最盛期のちょっと後の時期の中核派生活

外山 「革命が必要だ」と考えるようになったのは浪人時代ですか?

有川 いや、やっぱり高校の時だと思う。世の中に対して違和感を持って、これは引っくり返さなきゃダメだ、って。

外山 有川さんの方から自主的に近づいたってことは、よくある、たまたま入学した大学がナニナニ派の拠点で云々ってパターンとは違いますよね。他の党派と比較検討した上で、中核派を選んだんですか?

有川 もちろん選んだわけだけど、あれこれ比較した上でというより、その時期に一番メジャーで“革命に近い”かな、と思っただけですよ(笑)。

外山 存在感?

有川 一番派手にやってた頃だしね、中核派自身としても。だって皇居にロケット砲を飛ばすわ……。

外山 電車は止めるわ……。

有川 そうそう(笑)。

外山 自民党本部は焼き払うわ(笑)。

有川 革命に一番近そうな気がするじゃないですか(笑)。

外山 1年浪人したってことは、87年入学になりますね。うん、たしかに84、85年ぐらいに中核派は大暴れしてたんですもんね(84年には火炎放射器を積んだトラックで自民党本部を襲撃して半焼させた。85年には首都圏と関西の国鉄のケーブルを数十ヶ所で切断、台東区の浅草橋駅を焼き討ちしたり、革労協などと共に三里塚で機動隊と大規模な市街戦を演じたりした)。

有川 うん、とにかく派手だった。

外山 だけど有川さんが入った頃は、むしろ落ち込んでたんじゃないですか? 派手にやりすぎて疲弊しちゃって……。

有川 大量に逮捕者を出したからね。

外山 小西事務所(中核派が組織した数名の“反戦自衛官”のリーダー格だった小西誠の活動事務所)に出入りしてたんでしたっけ?

有川 行ったことはあるけど……。

外山 後に「秋の嵐」の中心人物になる太田リョウ(紙版『人民の敵』第10号参照/後註.『全共闘以後』も参照)が、ちょうど小西事務所にいた時期と重なってるんじゃないかな。

有川 会ってる可能性はある。だけどお互い本名を知らないし、誰が誰だったのか分からない。

外山 まあ、そういうものなんでしょうね。

有川 私がいた時期の最大決戦は、天皇の沖縄訪問阻止闘争。結局は天皇が病気で倒れて、代わりに皇太子(現・天皇/後註.現・上皇)が行ったわけだけど、あれが最大の盛り上がりだったな。

外山 87年ですね。その天皇訪沖に合わせて「秋の嵐」が結成される。

有川 私もその時期は3ヶ月ぐらいずっと沖縄にいたんです。前進社の沖縄支社に防衛隊として詰めてた。

外山 ヘルメットをかぶって?(笑)

有川 うん(笑)。ガサ入れとか、ありましたよ。

外山 東大でも、中核派の“東大細胞”的な?

有川 いや、東大は革マルとか民青が強いから……。

外山 公然登場はできない感じなんだ。

有川 だから法政に行ったり、三里塚に行ったりだよね。で、秋に沖縄に行く。たしか10月ぐらいだったでしょ?

外山 だと思います。「秋の嵐」が、名称のとおり当初は9月から11月にかけての“臨時共闘”組織として結成されたわけだし。

有川 沖縄国体のソフトボール会場で日の丸を引きずり降ろして焼いた事件があったじゃないですか。

外山 知花昌一さんの決起ですね。

有川 あの時、私、現場にいたんです。

外山 へー(笑)。

有川 右翼と乱闘になったんだけど、そこに私もいた(笑)。

外山 中核派にはいつ頃までいるんですか?

有川 その年のうちか、翌年に入ってすぐくらいまでです。この組織じゃ1万年頑張っても革命は起きないと思って(笑)。

外山 あ、意外と短いんだ。

有川 うん。その後はこっち(熊本)に戻ってきて、フツーに家の仕事を手伝って過ごし始めた。


 実は戦旗・荒派にも体験入隊

外山 いつ戻るんですか? 87年の入学だから……。

有川 2年目かな。大学は1年で辞めたし。

外山 ん? 卒業してないんだ。

有川 中核派を辞めた後も1年ぐらいは東京でブラブラしてた。やがて熊本に戻ってきて、学費も未納で、踏み倒して(笑)。「人間として恥ずかしいと思うなら払ってください」みたいなことを云ってきたけど、取り合わなかった(笑)。

外山 学部はどこでしたっけ?

有川 理科I類。

外山 それは何学部にあたるんですか?

有川 東大の場合は、まず教養学部に入って、後で成績とか希望によって専門に振り分けられる。とくに理Iは、どこにでも行けるんだ。成績との兼ね合いもあるけど、工学部でも理学部でも、進路は後から決められる。そこらへんの気楽さがあるから理Iに入ったの。なかなかいいシステムだと思うよ。

外山 入学時点では、漠然とでも将来設計はあったんですか?

有川 何にもない(笑)。

外山 まずは……革命?(笑)

有川 そもそも入学式に行ってないし、オリエンテーションにも行ってないし、とことんやる気がないよね(笑)。授業も1週間しか行ってない。ひととおり、いろんな授業を覗いてみて、あ、これはつまらん、と思った。やってることがカビ臭いというか……。

外山 “象牙の塔”的な?

有川 それですぐ行かなくなった。

外山 じゃあ東大にもほとんど通わずじまい?

有川 うん(笑)。

外山 で、通わずに中核派の活動を1年ぐらいやって……。

有川 あと実は戦旗派にもいたことがあるんだ(笑)。荒派だね(紙版『人民の敵』第5号に登場した三浦哲史氏のいる戦旗・西田派と対立する党派。紙版『人民の敵』創刊号および第2号に登場した佐藤悟志氏が属していたのは有川氏と同じく荒派のほう/後註.三浦氏については『デルクイ02』でのインタビューも、佐藤氏については『全共闘以後』も参照)。で、結局は中核派に行く。

外山 あ、荒派にいたのは中核派より前の話なんだ?

有川 いや、ほぼ同時期。最初の頃にちょっと迷って、“お試し期間”的に二股をかけて……。

外山 体験入隊?(笑)

有川 そんな感じ。

外山 それで荒派と中核派を比べてみて……。

有川 やっぱり中核派だな、と。それで中核派で1年ほどやってみたわけだけど、中核派を辞めてからはしばらく燻ってた。政治的なことからはまったく身を引いて……やがてこっちで外山君と会うんだね。

外山 ぼくが最初に会ったのは94年とかだと思う。

有川 じゃあ、かなりブランクがあるな。

外山 すでに熊本に戻ってきてから何年か経ってたってことですよね? この場所(現在は有川氏が経営する結婚式場)はあったけど、まだローソンでしたもん。

有川 そうそう。つまりブランクが4、5年あるんだね。

外山 87年に入学して、東京にいたのが仮に2年として、89年には熊本に戻ってきたことになりますね。

有川 沖縄からの帰りの船でブラック・マンデーのニュースを聞いた。ニューヨークの証券市場の暴落。あれも87年かな?

外山 だと思います。筑紫丘高校(福岡の、外山が通った“3つ目の高校”)で担任があれこれ云ってたのを覚えてるから、87年の2学期だ(10月19日のようである)。

有川 その翌年にはもう政治活動は辞めてた。


 政府を倒せるなら思想は右でも左でもいい

外山 辞めた後は……。

有川 しばらく東京でブラブラしてから熊本に戻ってきて、ここに店ができたのが91年。

外山 ああ、そういえば“since 1991”ってココの看板に書いてありますね。

有川 たぶん戻ってきて2、3年でココができて、さらに2、3年後に外山君と知り合う。

外山 ぼくが初めてココに来た時には、この建物の中にローソンがあって、隣りにも大きな建物があって、営業はしてなかったけど、カラオケボックスみたいになってましたよ。

有川 うん。1つの建物をいろいろ仕切って、カラオケとか、クラブとか、カジノとかをやるスペースになってた。92年ぐらいはそんな感じだったね。

外山 たぶんそれがいったん中断して、ちょうどローソンだけ営業が続いてた時期に初めて来たんだと思うけど……そもそもあれはどういう業種だったんですか?

有川 アミューズメント施設かな。1階が、クラブというか、ディスコ? 合法的なカジノをやるスペースもあって、上の階はカラオケ。それが今は家具屋に貸してる隣りの建物で、こっちの建物にはレストランとローソンがあった。

外山 ぼくが初めて来た時点では、かつての“3店舗”とかではなくて、ココだけになってたんですか?

有川 うん。大牟田と玉名の店はもう売却してたね。わりと高い値段で売り逃げることができた。

外山 ぎりぎりバブル期のうちに?

有川 いや、バブルは崩壊してたけど、まだ九州の田舎にまでは路線価の下落とかが波及してなかったぐらいの時期。で、ココで最初に結婚式をやったのが95年の7月7日。平成7年だから、スリーセブンの日でね。

外山 そうか。ぼくが知り合ってから後ですもんね、ココが結婚式場になったのは。

有川 95年以降はもう、結婚式がメインになった。

外山 たしか、ココで知り合ったカップルが、ココで式を挙げたいって相談してきて、その話に乗っかってみたら上手くいって……という話でしたよね?

有川 知り合ったんじゃなくて、最初のデートの場所で、プロポーズしたのもココだっていうカップルが現れたの。

外山 ぼくが知り合ったのは、ちょうどぼくが『SPA!』に出まくってる時期で、それを見て有川さんたちが連絡をくれたんですよ。……そういえばあの人、亡くなっちゃいましたね。有川さんたちが呼ぼうとしてた人。

有川 パトリック?

外山 ええ。

有川 亡くなったの?

外山 昨年だか一昨年だか(在日アメリカ人でDJのパトリック・ボンマリート氏は、93年、ゲイであることとHIVポジティブであることをカミングアウトし、94年から03年まで、エイズの予防啓発などをテーマとして『週刊SPA!』に連載を持った。13年4月、47歳で死去)。ぼくが初めて会った時、彼を呼んで何かイベントをやろうって計画を、有川さんたちは進めてたんですよ。

有川 ああ、そうだったね。だけどそのうち結婚式の仕事が忙しくなって、結局ウヤムヤになっちゃった。

外山 エイズ問題で啓発イベントをやろうとしてたわけだけど、とくに政治的な色が濃厚って感じでもなかったですよね?

有川 うん。“政治活動”という形ではなく、クラブ・イベントというか、パーティみたいなのに人を動員して、商業的にやる方向を考えてた。若者を集めて盛り上がれればいいなあ、ぐらいの。

外山 もともとクラブ文化とか、関心があったんですか?

有川 そういうわけでもないけど……たぶんあれだな、単に人を集めるのが好きなんだ(笑)。何かが集団化していく時のパワーが好きというか。だから“革命”を云々しても、革命思想がどうこうってことにはあんまり興味がなくて……(笑)。

外山 とにかく人がいっぱい集まって盛り上がるのが好き、と。

有川 政府を倒そう、体制を転覆しようっていうムーブメントそれ自体が好きなんであって、思想は右でも左でもいいや、っていう(笑)。倒せるんなら、どっちだっていい(笑)。そういう意味では私はノンポリですよ。

 「その3」へ続く〉

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