『全共闘』(20)

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 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 「その20」は原稿用紙換算20枚分、うち冒頭7枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその7枚分も含む。

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(第1部 全共闘以前 第2章 草創期の左翼学生運動 3.早大建設者同盟)


 欅ヶ原合宿

 建設者同盟の顧問を引き受けるに際して、北沢新次郎は和田らに二つの条件を示していた。学生であるうちは実践だけでなく理論的な勉強も怠らないことと、「思想の共通点を養うため」のメンバーの共同生活である。
 共同生活のための家は、池袋の北沢の家の隣に運よく空いた貸家があったのでそれを借り、北沢宅との間の垣根を取り払って自由に行き来できるようにした(〝引っ越し魔〟であったらしい北沢が一年ほどして他へ引っ越すと、その旧北沢宅のほうに学生たちは移った)。古い地名なのか単に庭にケヤキが立ってでもいたのか、やがて「欅ヶ原合宿」と通称される共同生活は、二〇年一月から始まり、初期からの住人は和田、三宅、田所ら十名足らずで、この中に前述の平野力三も含まれていた。
 和田と岐阜中で同級だった平野は、いったん拓殖大に進んでいるが、拓大卒業後に社会運動をやるために早大に入り直し、また和田と同級となって、むろんすぐ建設者同盟にも加盟したのである。平野もまた、二〇年代後半以降は(〝日本国家社会党〟なども含む)無産政党・社会主義政党の離合集散過程に身を投じて派手に活躍する。三六年に衆院初当選を果たし、敗戦後はやはり社会党右派の重鎮となって、五五年まで通算八期、片山哲内閣では農相を務めている。
 「常時六、七人が寝泊りし、深夜二時近くまで読書会などをつづけた。大学の講義は欠席しがちだった同盟員も、ここで行なわれるコールやラスキなどの原書による研究会には、熱心に参加した」というのは感心だが、「武蔵野の面影を残していたその周辺には、広い空地や田畑がいくらでもあった。空地で新人会の東大生を招いて野球に興じたり、畑からは炊飯用の野菜を無断で持ってきたりしていた。北沢のもとへは畑の主から、再三、抗議が寄せられた。この梁山泊で、やがて日本の無産運動の闘士となる若者たちは、日夜、酒を吞み、議論し、高唱して飽かなかった。そのすぐ横隣には西条八十が住んでいた。美人の訪問者が絶えず、二回の書斎に二人の影が映ると、西条家に向かって放尿し、『歌を忘れたカナリヤは、野球のバットでぶっ殺せ』などと大声で合唱したりした」(『テロルの決算』)ともいい、やはりしょせんは〝普通の若者たち〟なのだと思わせる。〝歌を忘れたカナリヤは、後ろのお山に棄てましょか〟というのは言うまでもなく、西条八十が一八年に発表し、一九年に曲がつけられ、二〇年にレコード化されて大ヒットした童謡の歌詞だが、西条の意図とはおそらく何の関係もなく、左翼運動の世界では以後、〝革命(あるいは人民)を忘れた共産党〟を主に揶揄する文脈で繰り返し引き合いに出されることになるフレーズでもある。「閉口した西条は、とうとう上野の方へ引越して行ってしまった」(『建設者同盟の歴史』)というから、ヒドい話ではある。
 また、「彼らは池袋の本部[北沢家]から校内本部[雄弁会]へ行くことが日課となっていた。その道筋にあたる目白に、穴仙人と呼ばれるアナキストが穴を掘って住んでいた。横穴の前には『人生は棺桶なり』と書いた棺桶が据えられており、そこで無政府主義の立場からするアジテーションを毎日のように行なっていた。建設者同盟のメンバーたちは次第にそこで穴仙人と共に演説をするアナキストたちと親しくなり、相互の交流が始まった」(『テロルの決算』)ことで、古田大次郎のように、次第にアナキズム運動へと傾斜していくメンバーも出てくる。
 このように思想的にはハチャメチャにも見える初期の建設者同盟だが、同時期の新人会などと同様、〝ヴ・ナロード(人民の中へ)〟を合言葉に労働運動などの現場に身を投じていこうという情熱はメンバーたちに共通のものだった。「学生社会主義団体は、そのメンバーの思想的な自己形成と大衆にたいする宣伝・啓蒙活動を、活動の二大分野としていた。建設者同盟も同様であるが、むしろ後者の活動がより目立つのが特色であった。同人たちは各自の思想を深めたり、同盟を思想的に均質化しようとする仕事がもどかしいかのごとく、とにかく一応取得した自分流の社会主義的な思想をもって、ただちに大衆の啓蒙に飛び出してゆくのであ」る(『建設者同盟の歴史』)。
 浅沼も、「友人たちに引っぱられるという形で学生活動家としての道を歩んできたが、雄弁会の幹事に選ばれる大正十年[二一年]頃から次第に自覚的な活動家に変貌していった」という(『テロルの決算』)。同年三月に足尾銅山の鉱夫たちが大争議に突入し、支援のために争議団本部を訪れて、七つ年上の麻生久に初めて出会ってもいる。前節で触れたように、麻生はこの頃すでに最有力の労働運動家の一人であり、とくに鉱山労働運動の指導者として大活躍していた。「それ以降、麻生が死ぬまで、ついに浅沼は彼の圧倒的な影響から抜け出すことができなくなる」(同)。麻生が四十九歳で死去するのはまだかなり先、四〇年九月のことだ。
 ただ、建設者同盟の若者たちが〝ヴ・ナロード〟を叫んで飛び込んでいくのは、労働運動よりもむしろ農民運動の世界である。これが本節冒頭で〝東大生に対する早大生のライバル意識〟を云々した背景でもあり、かなり初期の時点で顧問の北沢が、「労働団体の友愛会は東大新人会の連中が牛耳っているから、我々は農民運動を始めよう」と学生たちに〝アドバイス〟したのが直接の契機であるらしい。もちろん浅沼も農民運動に深く関わっていくし、浅沼以外のメンバーも労働運動に関わるが、全体としては圧倒的に農民運動のほうに重心がある。


 小作争議支援

 旺文社の日本史用語集は「小作争議」について、「小作料軽減要求の争議。組織的運動は明治30年代から。本格的展開は第一次世界大戦後で、1921年以降に激増。23〜26年の新潟県の木崎村小作争議は有名」と説明している。「1921年以降に激増」なのである。
 社会主義者たちも二二年一月には『土地と自由』という雑誌を創刊して、「激増」する小作争議への介入を企図し始めた。「土地と自由」はロシアのナロードニキたちの伝説的な秘密結社の名前である。そして同年四月、「日本農民組合」の創立に至る。この動きを主導したのは〝キリスト教社会主義〟の代表格の一人である賀川豊彦らで、つまり穏健派の社会主義者たちである。掲げられた運動方針も、地主側と協調しながらの改革を唱える、非戦闘的でパッとしないものだった。が、農民運動の新展開の決定的な契機ではあった。
 この二二年には、建設者同盟の学生たちは夏休みに入るなり、それぞれの郷里に戻って農民たちを啓蒙して回っている。まさにナロードニキ運動そのものだ。

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