『全共闘以後』刊行記念トークライブin東京(2018.9.18)その2

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その1」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2018年9月に刊行された外山の新著『全共闘以後』の販促トーク・イベントのテープ起こしである。刊行まもない2018年9月18日におこなわれ、紙版『人民の敵』第47号に掲載された。
 会場は東京・高円寺のイベント・スペース「パンディット」で、それぞれ『全共闘以後』の主要登場人物でもある中川文人氏(半ば司会役)、佐藤悟志氏、山本夜羽音氏も登壇している。
 このさらに約2週間後に同じく『全共闘以後』刊行記念イベントとして京都大学熊野寮でおこなわれた、絓秀実氏との公開対談のテープ起こしと併せてお読みいただきたい。

 ( )内は紙版『人民の敵』掲載時にもともとあった註、[ ]内は今回入れた註である。他のコンテンツもそうだが、[ ]部分は料金設定(原稿用紙1枚分10円)に際して算入していない。
 第2部は原稿用紙換算33枚分、うち冒頭12枚分は無料でも読める。ただし料金設定はその12枚分も含む。

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 〝普通の社会運動〟とは違う何らかの運動

外山 ……えーと、どういう話にしていきます?

佐藤 今回の本の感想とか会場に聞いてみたら?

外山 〝感想〟はまださすがに、読み終わった人も少ないでしょうし……。でも少しはいるみたいだから、とりあえず感想を聞いてみましょうか。

中川 そうですね。読んだ人、感想をお願いします。まずOさん、どうぞ(笑)。

O氏 いきなり云われても……。まあ〝感想〟というより、まずはこういう本を書いていただいて、ありがとうございます、と。

中川 たしかに私も、偉いなあと思いましたよ(笑)。書きようがないんだもん。どんなふうに書けばいいものか、悩みますよ。ぼくも一応モノを書いてる人間だし……しかも外山さん自身が当事者でしょ。自分も当事者であるようなテーマについてノンフィクションを書くというのは非常に難しいんです。距離感が難しい。そういう部分も含めて、これは大変な作業だなあと思いました。

O氏 残ってる資料もほとんどは〝ミニコミ〟とかだったりするでしょ。執念ですよね。

中川 仮にそういう資料を集めたり、関係者に話を聞いたりしても、外山さんよりも上の世代の人だと、どれほど取材したところで書けませんよ。

外山 なかなか意味が分からない運動(笑)。

中川 〝学校〟なんかに何を求めたんだ、と。〝アキノアラシさんは行政にどういう要求をしたんですか?〟っていう発想でしか普通は考えられないんだ。〝で、それに対して行政の何々課長はどういう対応だったんですか?〟っていうね。普通の社会運動はそういう方向で理解できるんだけど、君たちの運動はそんな話、関係ないじゃん(笑)。


 昭和天皇死去前後の〝自粛〟ムードに抵抗

外山 とはいえ、秋の嵐は〝前期〟と〝後期〟でまったく違う運動になっちゃうでしょ。

山本 うん、全然違う。

外山 佐藤悟志はその両方に関わってるけどさ。昭和天皇が88年の9月に倒れて、そこから〝自粛ムード〟というのが始まるわけです。日本全国、大小のあらゆるイベントが〝こんな時期に不謹慎だ〟ということで次々と中止になり、とくに音楽系の楽しげなイベントはほとんど取りやめになったよね。

佐藤 CMも……。

外山 井上陽水が出てた車のCMが……。

山本 〝お元気ですかぁ?〟ってやつ。

外山 画面の奥から車が近づいてきて、カメラの前を横切りざまに運転席の陽水が窓を開けてカメラに向かって「お元気ですかぁ?」って語りかけるだけのCMなんだけど、〝陛下が大変な時に「お元気ですか」とは何事だ!〟ってことで、映像はそのままで陽水の声だけ消されて、なんか陽水が口をパクパクさせてるだけの奇妙なCMに……(笑)。

山本 あの時期は、パチンコ屋のネオンも全部消えたんだよ。

外山 そういうかなり異様な空気が社会全体を覆ってて、もちろん原宿ホコ天も中止になっており、その中止になってるホコ天が秋の嵐の活動の舞台になる。その頃の秋の嵐を形成してたのは、あれは主にパンク・バンドの人たちなんだよな。当時の東京には、いくつかの政治的なパンク・バンドがあって互いに交流があり、彼らが〝反天皇制〟を、原宿ホコ天で〝バンド演奏〟という形態でアピールする、というのが秋の嵐というグループの最初の形なんです。そこに、べつにバンドマンでもパンクスでもない佐藤悟志なんかも、いつの頃からか参加するようになってた。

佐藤 まず最初はバンドの人たちと一部のノンセクト学生が一緒になって、そういう活動を始めるんだけど、やがてそこにぼくのような〝セクトくずれ〟の活動家が……。

外山 自分から辞めたり、クビになったりしたような〝元・党派活動家〟の人たちですね。

佐藤 居づらくなったり追い出されたり、総じて党派では務まらなかった人たちが寄ってきて、まあリハビリをするというか(笑)、だんだんそういう場にもなっていったわけだ。

外山 結成が87年の秋で、要は〝反天皇制〟というテーマを共有したパンクスたちの路上ライブを断続的に原宿ホコ天で繰り返して、ごくたまに警察と揉めたりするような牧歌的な時代がしばらく続くんだけど、佐藤悟志はかなり早い時期、結成から約半年後の88年4月29日、昭和時代の天皇誕生日に初めて秋の嵐に登場してるようですね。それが88年9月、天皇が倒れて〝自粛ムード〟でホコ天が中止になった中でも秋の嵐はホコ天に出続けて、急速に対警察関係でもシビアな状況になってくる。
 で、89年1月7日にいよいよ昭和天皇が亡くなって、たまたま翌1月8日が秋の嵐がホコ天に出る日曜日で、そこで最初の本格的な弾圧を浴びることになるわけです。ホコ天で無届けデモを敢行して5人逮捕され、翌週の1月15日にも3人逮捕された上に、警察と示し合わせた右翼の襲撃もある。そういう感じで、まさに絵に描いたような弾圧によって秋の嵐は潰されてしまうんですけど、それがいわゆる〝前期・秋の嵐〟ということになります。しかしその後も何となく一部残党の間の人間関係は続いていて、89年の春に秋の嵐の近傍に誕生した「馬の骨」という山本夜羽音たちのグループが……。


 「馬の骨」を経て「後期・秋の嵐」へ

山本 ぼくら自身が、自分たちを〝秋の嵐ファンクラブ〟みたいに位置づけてたんですよ。秋の嵐が原宿ホコ天という場所をものすごく風通しのいい状況にしてくれた、と。しかしあいつらが潰されてしまって、どうもホコ天がまた息苦しい感じになってきてる気がした。

外山 もともとホコ天というのは、〝68年〟の全共闘による〝路上解放区〟とかベ平連系の〝新宿フォーク・ゲリラ〟とかに手を焼いた権力側が、〝自由〟を上から与えて懐柔を図るような形で始まったわけで、本質的に〝管理された自由〟の空間でしかないんだけど、そこに秋の嵐が、権力側が想定していない〝自由〟を持ち込んで、一部の野次馬たちに解放感を与えてくれたんですね。ところがその秋の嵐が潰されてしまう。これはいかんということで、秋の嵐がいずれ復活してくるまでの〝場つなぎ〟的な役割を意識的に果たそうとしてたんでしょ?

山本 そうそう。

外山 それで馬の骨がホコ天のすぐ脇の野外音楽堂でたまに音楽イベントをやったり、必ずしも原宿に限らず、やっぱりすぐ近隣の渋谷の原発PR館でイヤガラセをして騒動を起こしたり……。

山本 ただ反原発のゼッケンだけ付けて、とくに何もせず集団でおとなしくPR館を見学する(笑)。

外山 あるいは当時、〝広島平和コンサート〟という、何と云えばいいのか要はリベラル派のしょーもない、しかしメジャーどころが総出演する大規模な商業音楽イベントが毎年おこなわれていて、〝平和がいいに決まっている!〟っていうスローガンが掲げられてたんだけど、その関連イベントに押しかけて〝平和がいいに決まっているのか?〟っていうビラをまいたり……。

山本 〝教師の平和よりオレたちの戦争を!〟ってフレーズも入れた。

外山 まあそんなようなことを次々とやる馬の骨というグループが〝場つなぎ〟をして、やがて馬の骨がほとんどそのまま合流するような形で、秋の嵐が復活してきます。活動舞台は同じ原宿ホコ天というか、〝前期・秋の嵐〟でもメインの舞台の1つだった明治神宮前の半ば広場のような歩道部分なんだけど、〝バンド演奏〟ではなく〝路上云いたい放題コーナー〟になるんだよね。
 地べたにトラメガが置いてあって、基本的にはもちろん秋の嵐のメンバーがそれで代わる代わる喋るんだけど、単なる通行人である原宿の少年少女たちが飛び入りで喋り始めることも頻繁に起きるようになって、親や学校への不満とか、あるいはサラリーマンとかも飛び入りしてきて会社や上司の悪口を云い始めたり、ワケの分からないまま次第に不穏な感じになっていくのが〝後期・秋の嵐〟で、それが90年の秋から冬にかけての展開です。この頃は〝前期〟の主役だったバンド部分は抜けてるんだけど、佐藤悟志は引き続き参加してる。

佐藤 ぼくはバンドの人間ではなかったので、前期の時期の演奏にはもちろん参加しようがなく、対警察・対右翼の〝警備〟ぐらいのつもりでその場にいただけなんですけど、基本的には前期の秋の嵐は、ホコ天で演奏して、音楽を通じてお客さんに〝反天皇制〟のメッセージを伝える、というようなグループだったわけですね。しかし次第に警察からの弾圧も厳しくなるし、右翼の襲撃もあったりして、演奏よりも警察や右翼との攻防そのものが活動のメインになっていったところがあります。それはそれで毎週ワーワーと騒ぎになるし、そういうのを面白がる野次馬が集まってきて、一部は一緒に活動するような関係にもなって、毎週ますます大騒ぎするような後期の秋の嵐の活動に変化していく。


 正統派学生運動には収まりきれなかったドブネズミたち

外山 今回の本にも書きましたが、実際に後期・秋の嵐では、何度か〝暴動〟のような展開にまで至ってるんです。

佐藤 まあそうだね。とくに昭和天皇が死んだ直後は盛り上がって、警察もカッカしてるし右翼もカッカしてるし……。

外山 しかしおそらく、〝反天皇制〟を明確に掲げていた前期の秋の嵐についてまでなら、〝社会派推理小説〟も書けるんじゃないですか?

中川 うーん……。

佐藤 たしかに前半は〝社会派推理〟なんだけど、後半どんどん〝謎の事件〟が頻発し始めて、謎の犯人が謎の犯罪を繰り返すワケの分からない推理小説になってしまう(笑)。

中川 (会場に)樋口さんなんかは秋の嵐をどういうふうに見てたの?

外山 当時からご存じだったんですか?(外山はこの日まだ樋口氏の経歴[「その1」で言及。早大ノンセクトからほぼ唯一、前期・秋の嵐の活動に参加]を把握していない)

樋口 オレは自分が秋の嵐のメンバーだったのかどうかよく分からなかったぐらいなんだけど、主要には早稲田の黒ヘルだったんですよ。見津と隣のクラスだったし親しくはあったんだけど、見津がいつのまにか学内の運動からはいなくなっていて……。

外山 (会場に)〝見津〟というのは見津毅という、結成当初からの秋の嵐の中心人物で、後期もずっと最後までいる人ですね[95年に27歳で交通事故死]。

樋口 でも明らかに学内の黒ヘルの運動よりも見津のやってることのほうが面白そうだとは感じてました。外山君の本にどのぐらい書いてあるのかまだ知らないけど、中川さんの云う〝学生運動〟とはまたちょっと違う、「首都圏学生実行委員会」っていう〝ノンセクトの正統〟みたいなところがあったんです。そこから出てきたのが、ノーベル賞を獲った川崎さん(川崎哲。17年にノーベル平和賞を受賞した「核兵器廃絶国際キャンペーン」の運営委員の1人)とかで、つまりそういう正統的な活動家を多数輩出してるところです。
 見津も最初はそういう正統派の学生運動にも参加してたけど、2年生ぐらいの時に、学内でやってても仕方がないだろうと飛び出して、やっぱりそういう見津が学外でやってる運動のほうが明らかに面白そうでしたよ。それを正統派学生運動の側は、やっぱり冷ややかな目で見てたわけです。〝あんなのは運動じゃない〟とか、〝弾圧されるのが好きなだけなんだよ〟とか、〝弾圧マニア〟とか云われて、89年の1月に本格的な弾圧を受けた時にも、それを積極的に救援しようとは思わない人たちも結構いました。〝あいつらまたハネて、どうしようもないな〟って。だけどオレはむしろアキアラ(秋の嵐)のほうがどう考えても面白いと思ったし、とくに89年に入ってからは学内の運動よりもアキアラのほうに関わったんですけどね。
 中川さんの云うような〝社会派〟の推理作家が書くような推理小説は、結局は〝社会派〟が好きな人しか読まないんです。そうではない普通の人たちが集まれるのは、やっぱりアキアラとかのほうなんですよ。そこは決定的に違うと思いますね。

外山 見津毅は、学内の正統派のノンセクトからかなり……まあ追われるように学外に飛び出していったような感じがあるでしょ。

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