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■【暴政の“跋扈”、「人道・倫理(平和への意思)の政治利用」に対する新コロナの逆説的警告】特に日本・米国・中国らにおける、AI・バイオ等本格的「先端科学の時代」にこそ“絶対”必須となる「人道上の罪」(リアリズム倫理)意識の“決定的”欠落!

【暴政の“跋扈”、「人道・倫理(平和への意思)の政治利用」に対する新コロナの逆説的警告】特に日本・米国・中国らにおける、AI・バイオ等本格的「先端科学の時代」にこそ“絶対”必須となる「人道上の罪」(リアリズム倫理)意識の“決定的”欠落!

<注>「暴政」とは、突き詰めれば「政治(同権力の行使)における倫理(人道/平和への意思)の不在」のことであるが、委細の条件等については下記★を参照乞う。・・・★《暴政の愛国/政治的インポテンツ》から《連帯パトリオティズム》なる展相(Potenz)の「リベラル共和」へ脱出が成るかニッポン!?/「愛国の疑似宗教性」と「暴政の条件」に関わる論考(Cf.将基面貴巳806日経:文化)https://note.com/toxandoria2/n/n71729a662785

各国リーダー・コロな対応評価_R

◆安倍首相のコロナ対応、日米欧6カ国で「最低」 国際世論調査、経済支援策に不満大きく 20200813 東京新聞、https://www.tokyo-np.co.jp/article/48602/

・・・以下、同上記事の転載・・・

新型コロナウイルスに関する日米欧6カ国の国際世論調査で、自国のリーダーがコロナ危機へ適切に対応できているかを聞いたところ、日本は新型コロナ感染症の死者数が米欧に比べ少ないにもかかわらず、安倍晋三首相の国民からの評価が6カ国で最も低かった。一方で経済的な不安を感じている人の割合は、日本が最も高かった。(村上一樹)
 調査は、米独のPR戦略会社「ケクストCNC」が7月10~15日に、日本、米国、英国、ドイツ、スウェーデン、フランスで1000人ずつ、計6000人を対象に行った。
 自国リーダーのコロナ危機対応の質問では、「うまく対応できている」と答えた人の割合から「対応できていない」と答えた人の割合を引いて数値化した。安倍首相はマイナス34ポイントだった。次に低かったのはトランプ米大統領でマイナス21ポイント。6カ国で唯一、肯定的な評価を受けたドイツのメルケル首相はプラス42ポイントだった。
 政府の経済支援策への評価では「企業が必要とするビジネス支援を提供できている」と回答した人の割合が、日本の23%に対し、他の5カ国は38~57%。リーダーだけでなく政府全体に対しても、日本は評価が最も厳しかった。
 日本は、経済的不安に関する質問で「失業するのではないかと懸念している」との回答が38%、「勤務している会社が倒産しないか心配」との回答が36%に上り、ともに6カ国の中で最も高かった。
 日本の調査結果について、ケクストCNCのヨッヘン・レゲヴィー日本最高責任者は「政府のビジネス支援策に対する非常に強い不満が、安倍首相への否定的な評価につながった一因ではないか」と分析している。

◆日本は新コロナ死亡率が低いのに経済的ダメージが大!この不均衡な現実の裏には、本音で自粛警察を煽り、同時に国民へ自己責任を負わせる<政府の新コロナ政治利用>なる低劣な意識がある!→PCR検査受けるとリストラ対象?コロナ差別が日本経済を死に追いやる811M.V.今市太郎 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1293072048076361730

中国11https://twitter.com/tadanoossan2/status/1293243567419224065

中国12https://twitter.com/tadanoossan2/status/1293096010579734529

◆科学知&広島市・県の行政形式上の立場を人質に取った非人道的戦術!そもそもは被爆者の超高齢等の諸条件を考慮し、より柔軟にリアル補償で対処すべきでは?「核兵器禁止条約批准」アベ非署名の本音と同因?→黒い雨訴訟、広島市・県が控訴 国の要請受け入れ813朝日https://twitter.com/tadanoossan2/status/1293572491462361093

アベ連想2

もし大統領選でトランプが敗退!するとすれば、それは強権というよりもコロナ対策らの無策に因るとの説だが、その核心をより深く抉れば「アベ様と同じく人道上の大罪」(倫理観の絶対不在)であることが透ける!w → [FT]強権より無策憂う米国民812日経/FTコメンテータ:J.ガネシュhttps://twitter.com/tadanoossan2/status/1293796072695816195

トラ倫理の絶対不在https://twitter.com/tadanoossan2/status/1293796072695816195

【QT】11─12調査で、女性や若者、一部の共和党員の間で、ハリス氏の人気がバイデン氏よりも高いことが示された! →米民主ハリス氏、党員から圧倒的支持 女性・若者に人気=世論調査 813ロイターhttps://twitter.com/tadanoossan2/status/1293874840399560705

ハリス1https://twitter.com/tadanoossan2/status/1293874840399560705

関連/天に唾するトランプ氏!?w ハリス氏は2024大統領《本命》への布石となるかも?∵世界市民らは人道(リアリズム倫理)に覚醒か?! →トランプ氏 副大統領候補のハリス氏を酷評連発 813テレ東N.https://twitter.com/tadanoossan2/status/1293874840399560705

ハリス2https://twitter.com/tadanoossan2/status/1293874840399560705

・・・[関連]一方、米国では直近に出版される予定(≪注記≫周知のとおりだが、当note投稿の時点20200813では疾うに出版されている!!)のボルトン前大統領補佐官の回顧録が「トランプ政治では“ウクライナ疑惑”の流儀が常習化していた」こと、あるいは「中国・習主席に対し、自らの大統領再選への協力を要請したり、くだんのウイグル族弾圧への理解を示したりしていた」(いわばトランプの極端な自己チューゆえのあからさまな二~三枚舌!つまり、低劣な嘘吐きがトランプの正体である!)ことなどが暴露されているhttps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/06/04/155449https://www.asahi.com/articles/ASN6L2PH3N6LUHBI009.html)。

<関連>リアリズム倫理についての考察

(1)概念飽和(Conceptual Saturation)、概念規定(Conceptual Provision)という視点の重要性

「概念飽和」という考え方は普通に我われが、殆ど無意識に理解していることでもある。例えば、物や色などを表す言葉の意味(概念・イメージ表象)、または抽象的な言葉の定義(概念・表象)などが、ある程度は一定の範囲に止まる「概念規定(Conceptual Provision)」がなければ、我われの日常的なコミュニケーションが取れなくなるはずだ。

従って、そのような場合に一定の範囲で言葉上の概念の領域が留まることは、それ自体が概念飽和であり、そのような意味での概念飽和は、至極あたりまえのことであるといえる。それどころか、この意味での概念飽和(つまり概念規定)がなくて、もし一定の範囲の意味が共有できない(その意味での概念飽和がない)とすれば、日常会話でのコミュニケーションは無論のこと、特に法律や科学技術など専門分野の用語では致命的な問題に繋がることになるだろう。

一方、ものごとの寛容な理解や、多様性を大切にしたり、あるいはイノヴェーション・新発見・芸術的創造性や豊かな想像力の発揮などのためには、その意味での概念飽和(これは概念規定と言うべきだが)に余りにも過剰に固着すると、それらに関する新しい可能性や能力発揮の機会を逃したり、又はヒトにとって最も重要な人間性を破壊したり人道上の犯罪を犯したりする如き悪行さえ、人間社会で当然視されることにもなりかねない。
だから、個々の「概念飽和」(厳密に言えば、仮の概念規定としての概念飽和)をコミュニケーション媒介として日常的に利用せざるを得ない人間社会では、多様な概念がそれ自体としては絶対に独立的に超然と存在(君臨)することはできず(数理的なそれは別として抽象概念そのものさえもが)、我われは必ず「エトノス自然・文化環境」と数多の「ヒトの生命の一回性」との多面的で生命論的な関係性での共鳴と干渉の場のなかで相互に生かされ、生きている存在なのだという理解を前提にして(選言論(説)のテーマとなる視点/↓★)、絶えず謙虚に目前の<リアル(実存)>を理解する努力を持続させる必要があることになる。

★ 知覚・感覚ひいては「感情」こそがヒトの日常言語における固有名等の一義的な「意義」と概念の形成に先行すると見る、言語哲学の立場である「選言説」は、一般的には概念説(表象説、概念相対主義/relativism)と対置される。そして、ジョン・マクダウエル(John Henry McDowell/1942- /南アフリカ出身の哲学者、ピッツバーグ大学教授)の「リアリズム倫理学」では、「選言説」こそが「ヒトの意識=第二の自然」という定義の根拠だとしている。つまり、この「選言説」が、「リアリズム倫理学」を第一義の自然(従来からの自然)と等置する考え方のベースとなっている。https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/125305
・・・

つまり、「ヒトとしての傲慢な心性を遍く捨て去り、そのような謙虚な態度を前提条件」としさえすれば、たとえそれが専門用語の概念規定の謂いでの「概念飽和」であるとしても、又はたとえそれが啓蒙思想の普遍観念(高度に抽象的で歴史的に確立された)であるとしても、その規定的な意味の変更をアカデミズム(学界)や周囲の社会一般の人々との間で、等しく十分に文脈的で民主的で説明的なコミュニケーション(マクダウエル“リアリズム倫理学”↑★のフェーズでの対話)を介する微調整で変容させることは可能であることになる。従って、それが安倍政権下の如く、一強化した政治権力の下の詐術的・隠蔽的な手法で一方的、対国民“調教”的に行われることは論外である。

(2)新時代の倫理の前提/マクダウエル「リアリズム倫理」の核心と見るべき選言説
・・・マクダウエル倫理学の核心=近代的二項対立に陥る以前の古代ギリシア的(プラトンと和解・融和したという意味でのアリストテレス的)な世界観を範に採るべきだとの主張・・・

画像6https://www.philosophy.pitt.edu/person/john-mcdowell

<注>ジョン・マクダウエル/John McDowell(1942‐ )・・・ピッツバーグ大学教授. オックスフォード大学講師を経て 1986年より現職/研究分野は多岐にわたりプラトン・アリストテレスに代表される古代ギリシア哲学、倫理学、言語哲学、 認識論、心の哲学、ヴィトゲンシュタイン研究などで大きな影響力のある論考を発表している。

カント、ヘーゲル研究でも知られるが、日米および欧州などで跋扈するマイファースト・自己責任論・多様性否定主義あるいは表層的なAI万能論が囃される昨今(関連参照↓ブログ記事★)であるからこそ、そのユニークな「リアリズム倫理」(道徳的実在論/自然と対比的に、それを第二の本性(自然)と位置付ける)が注目されている。つまり、ジョン・マクダウエルは、かつてヒト(人類)が理解していた筈の【根源的かつコンシリエンス的な“想像力”(人文・科学知の融和・和解的統合)に因るリアリズム/コンシリエンス・リアリズムとでも呼ぶべきか?】の自覚(復権)こそが、愈々、必須になると警鐘を鳴らしていることになる(委細、後述)。
★AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができるhttps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514
一般に我われは人間の心について、普通<それはコギトエルゴスム(cogito、ergo sum/我思う、故に我あり)のデカルトが考えたような物理的世界には何ものをも負わない実体とされるか(マクダウエルの言う『威丈高なプラトニズム』/恰もハイエクとミルトン・フリードマンが嵌ったリバタリアニズム(抽象合理一神教とでも言う他に言いようがないほど異常に強度の概念硬化がもたらした完全自由主義)が連想されて興味深い!)、逆に物性物理的な性質に還元されて説明されるか(同じくマクダウエルが言う『露骨な自然主義』/“観念Vs自然”なる二元論の対概念としての自然の意味であり、その立場からすれば、例えばマルクス・ガブリエルの新実在論(外界の思考)なども絶対に認められないことになるだろう!)という二者択一に常に迫られるというジレンマに陥っていることになる。

マクダウエルは、このような「威丈高なプラトニズム」と「露骨な自然主義」とが実は共犯関係にある(普通、我われはそれにより騙されている)ので、今やAI‐コンピュータがほぼ万能視されるような時代になったからこそ、そのような近代的二項対立に陥る以前の古代ギリシャ的(プラトンと和解・融和したという意味でのアリストテレス的)な世界観を範に採るべきだと主張している(これが、マクダウエル・リアリズム倫理学の核心!/出典:現代独仏圏の哲学的人間学とジョン・マクダウエルのアリストテレス的自然主義(岩手大学、音喜多信博/KAKENhttps://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-17K02156/
マクダウエルが言う「今こそ我われが範に採るべき“近代的二項対立に陥る以前のアリストテレス的な世界観”」ということを言い換えれば、それは「ガダマーがディルタイの生の哲学のなかに再発見したとされる“古代ギリシア・ローマにまで遡る「現代人がすっかり忘れ去ったリベラル・アーツ的な観念”であり、それこそがヒト故の豊かな想像力の源泉」(その流れの二大潮流がプラトンとアリストテレスの和解・融和ということ/そして、これは見方次第のことながら、アリストテレス主義(徳の倫理学/二コマコス倫理学)がプラトン主義を批判的に受け止めつつも深く理解し、同様にプラトン主義(敬虔(謙虚さ)の倫理学)もアリストテレスの徳の倫理学を批判的に受け止め深く理解していたと考えられること)であったのではないか?と思われる。(Cf.https://kimihikohiraoka.hatenablog.com/entry/20120422/p1 、https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514 )

・・・マクダウエル『リアリズム倫理学』の核心はヒトの意識を“第二の自然”と見なし、それを“第一の自然”(地球環境)と同等に位置づける点にある・・・
たまたまの邂逅であるが、<20190827朝日「文化・文芸」欄の『スマホ・AI、言語を変える/コンピューターは想像が苦手?』という記事>は興味深い内容であった。
それは、我われが<スマホ・AIによって言語の質そのものが根本から変わりつつある(話し言葉が書き言葉の中に入ってきた?!ヒトの意識と異質なコンピューターは文脈的・文法的な意味は分からないが、それは人間同士の言語の使い方とは全く異なるコミュニケーションの形を創造しつつある?)時代に入ったというユニークな指摘に加えて、コンピューターはヒトの最もヒトらしい特徴と見るべき「想像」( imagination)が苦手である!?(従って、益々、これからの時代において我われヒトの会話と文章、つまりその意識から想像力が失われて“我われが動物化”する宿命にあるのでは?)という、当ブログ記事のテーマでもある「ヒト故の想像力のユニークさ(特に、そのあらゆる意味での“潜性イノヴェーション”の宝庫でもあり得るという意味での重要性)を本格AI化の時代に入りつつある今こそ再認識すべきだ!という問題意識」と重なる論点を提供しているからだ。

【補足】『人間の壁2』と「選言説」について
・・・「選言説」(intentionalism)は、知覚・感覚ひいては感情こそがヒトの日常言語における固有名などの一義的な「意義」と概念の形成に先行すると見る、言語哲学の立場であり、一般的には概念説(表象説、概念相対主義/relativism)と対置されるが、マクダウエルでは、これが「ヒトの意識=第二の自然と定義し、それを第一義の自然と等置する考え方」のベースとなっている。
「マクダウエルの≪選言説≫に因る意味論」でも、その第二の自然たるヒトの意識はそもそも胎盤的な謂いの環境である第一義の自然の影響を当然のこと受けている(諸感覚を経由して)はずなので、たとえ固有名詞であっても初めから固有の価値を持つとは考えられない‐ということになる。
『人間の壁2』(労働生産性VsAI等“機械高度生産性”に因る超格差の拡大トレンド、およびそのことに因る人々の不満や不安心理の拡大)は、準汎用AIの高度機械生産性の角度から見れば『人間の壁1』の問題そのもの(AI抽象化デュナミス潜勢態(生命体のヒトにとっては、抽象化である限り、それはあくまでも可能性の次元に留まる/大黒岳彦)に重なる(委細参照 ⇒ (1)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938 , (2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

つまり、『人間の壁2』(結局、“感じる”ヒトは高度デジタル抽象的なビジネス・サービスだけでは十分に満足できないという)の問題は、<知覚・感覚ひいては感情>こそがヒトの日常言語における固有名の一義的な「意義」と概念の形成に先行すると見る「選言説」と関りが深いことになる(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/42/1/42_1_1_29/_pdf/-char/en)。
<参考>マクダウエル自身は概念説(表象説)と選言説の結びつきについて明確な論述を施していないが、われわれは、ひとまず両者の関係を次のように整理することができる
概念説と選言説はそれぞれ対立する立場との間に論争を巻き起こしつつ、現代の知覚の哲学における中心的な関心領域の一部を形成している。

「概念説」が確保しようとするのは、「知覚経験においてわれわれの信念は合理的な制約(フレーム)を獲得する」という論点であり、他方の「選言説」が確保しようとするのは、「知覚経験においてわれわれの心に提示されるのは実在の在り方そのものである(いわば、マルクス・ガブリエルの外界の思考に近い?)」という論点である。
したがって、これら二つの見方は、相伴うことで「経験は信念に対して実在からの外的な合理的制約を与える」という論点を構成すると考えることができる。換言すれば、選言説と概念説の両者はそれぞれ、「実在から経験へ」および「経験から信念へ」という二つの道筋を整備し、それらを正当化の序列のなかに正しく位置づけるために相補的に機能すると捉えられる(出典:知覚経験の選言説と概念説/小口峰樹(東京大学総合文化研究科科学史科学哲学/現・玉川大学脳科学研究所、特任助教)。https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/members/pdf/知覚経験の選言説と概念説.pdf

因みに、ケンブリッジ分析学派(ヴィトゲンシュタイン学派)は“非選言説”の立場を採る。また、「選言説」はマクダウエル「リアリズム倫理学(ヒトの意識=第二の自然と見て、それを第一義の自然と等置する)」のベースと見るべき問題でもある。更に、ここで言う「意義」はフレーゲ言語学での「実在の直接的な意味、意義(概念)、表象」20200604 新コロナの警告/ファシズム2.0に抗い持続を保障する潜性ノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」で繋ぐ『日常』にある(2/2)
■新コロナの警告/ファシズム2.0に抗い持続を保障する潜性イノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」で繋ぐ『日常』にある(2/2)・・・それは「地球環境の保全、および平凡な一般国民(99%派)のリアルな『日常』こそ倫理に基づくデュー プロセスの土台であることの再確認が必須!」との警告でもある!・・・

<注>ファシズム2.0・・・20世紀型ファシズム(20世紀初頭に現れたナチス・ドイツ、ムッソリーニのイタリアの亜流ネオ・ファシズム(またはネオナチ)と“ほぼ同義”だが、ここでは例えば安倍政権がそうであるように「新自由主義と独裁の癒着」を明確化させるため「ファシズム2.0」と名付けた。

ところで「概念飽和」的な考え方は普通に我われが、殆ど無意識に理解していることでもある。例えば、物や色などを表す言葉の意味(概念・イメージ表象)、または抽象的な言葉の定義(概念・表象)などが、ある程度は一定の範囲に止まる「概念規定(Conceptual Provision)」がなければ、我われの日常的なコミュニケーションが取れなくなるはずだ。

従って、そのような場合に一定の範囲で言葉上の概念の領域が留まることは、それ自体が概念飽和であり、そのような意味での概念飽和は、至極あたりまえのことであるといえる。それどころか、この意味での概念飽和(つまり概念規定)がなくて、もし一定の範囲の意味が共有できない(その意味での概念飽和がない)とすれば、日常会話でのコミュニケーションは無論のこと、特に法律や科学技術など専門分野の用語では致命的な問題に繋がることになるだろう。

一方、ものごとの寛容な理解や、多様性を大切にしたり、あるいはイノヴェーション・新発見・芸術的創造性や豊かな想像力の発揮などのためには、その意味での概念飽和(これは概念規定と言うべきだが)に余りにも過剰に固着すると、それらに関する新しい可能性や能力発揮の機会を逃したり、又はヒトにとって最も重要な人間性を破壊したり人道上の犯罪を犯したりする如き悪行さえ、人間社会で当然視されることにもなりかねない。

だから、個々の「概念飽和」(厳密に言えば、概念飽和または概念規定)をコミュニケーション媒介として日常的に利用せざるを得ない人間社会では、多様な概念がそれ自体としては絶対に独立的に超然と存在(君臨)することはできず(数理的なそれは別として抽象概念そのものさえもが)、我われは必ず「エトノス自然・文化環境」と数多の「ヒトの生命の一回性」との多面的で生命論的な関係性での共鳴と干渉の場のなかで相互に生かされ、生きている存在なのだという理解を前提にして(選言論(説)のテーマとなる視点)、絶えず謙虚に目前の<リアル(実存)>を理解する努力を持続させる必要があることになる。

(3)人文知の極致『倫理』の有意性「再建」が必須/それは先験的“倫理”からリアリズム“倫理”なる『外界の思考』への転換ということ

・・・垣間見えたAI‐ディープラーニングの限界、だからこそ新しい“倫理学”の可能性への期待が高まる・・・

[1]拡張現実(Augumented Reality)をめぐる新たな視点の展開

・・・人間の壁(AI高付加価値)を越える「配分の正義」の実現は如何にすれば可能だろうか?それには潜性イノヴェーションのラビットホール(兎穴)を通過できる「拡張現実」(AR)的な「一回性の体験的な想像力」がヒントとなる。・・・

如何にすれば人間の壁(1,2)のリアル(エネルゲイア)化は可能なのか?安定したグローバル・ネットワーク(Global AI-Web/Network)でその代替が可能だ!という、ある意味で誰にでも分かり易い理想を持ち続けるのは、それはそれとして重要であると思われるが、何よりも先ず人々がリアルの『日常』生活を安心して持続できるという<ヒトにとって最低限の必要条件を満たす生命の論理>を最優先させなければ、あらゆる意味で本末転倒となる。

そこで、「人間の壁」(“AI等機械高度イノヴェーションVs労働生産性”に因る格差拡大/人間の壁1)を克服するカギは「配分の正義」であることになる。1970年代以降の新自由主義(@ハイエク・フリードマン)による「配分の不正義」の時代には、この意味での格差は更にスキル偏向技術進歩、いわば技術イノベーションに因る“雇用一人当たり生産性向上(GDP総額増加)と一家計当り所得減少”の大<乖離>の問題「グレート・デカップリング/人間の壁1の拡大」(関連↓★)が発生したため深刻化するばかりとなっててきた。

★米国のグレートデカップリング・トレンド、ほかについてhttps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

・・・
実は、それが特に中間層の没落につながる主な原因となっていた(人間の壁1の拡大が定着化したことに因る!)訳だ。加えて、更に本格的AI時代となった現在では、ヒトが単純なAI化サービスに対する不信感や、そもそもの「配分の不正義」(次善の機会と隔絶した不可逆的な超過利潤(レント)の放置に因るGreat‐Decouplingの発生など)がもたらす大きな不安を、換言すれば得体が知れぬ新たな生命上のリスクをそこに感覚的に感じ取るという問題「人間の壁2」が深刻化してきた(委細は、第4章‐<注>を参照乞う)。そして、既に述べたことだが、これは当記事の主要テーマである「潜性イノヴェーション」と「自然・文化エトノス環境」の問題にも深く関わっている。

そのようなことから、「国家」の<信用>を着実に支え続けるのは、先ず、基本的には(1)古典的イノヴェーションによるエネルゲイア(ビジネス&金融活動がもたらし、すぐに貨幣に換算し分配が可能となる付加価値)の創造(シュンペーター『動態』におけるイノヴェーション(新結合))と、その「公正な分配」である。しかし、考えてみれば一定期間におけるマネー量トータルの大きさだけでは不十分である。

それだけではなく、加えて(2)「その一回性の生命体であるヒトを含め、それに続く未生たちが、更に持続的に、未来へ向かって生き続けることが可能となる十分な量のマネーが永続的に供給できる仕組み」を保証するものは何か?ということになる。そこで浮上するのが「潜性イノヴェーション」の問題である。

そして、この「潜性イノヴェーション」で必須となるのが、我われ一回性の生命体の胎盤ないしは培養基盤の役目を担っていることが明らかな「自然・文化エトノス環境」に関わる<想像力の問題>である。

しかも、本格的な「AIグローバル・ウエブネットワーク(Global AI-Web/Network)」の時代へ入りつつあるからこそ喫緊に考えるべき課題は「拡張現実(Augumented Reality)」的な「一回性の想像力(脳内思考)」活性化の問題である。但し、注意すべきはそれが、ハイエクないしはミルトン・フリードマン流儀の新自由主義(リバタリアニズム)的なグローバリズム論、あるいはAIシンギュラリティ論の如き薔薇色の世界を喧伝するユートピアの喧伝ではないということだ。

また、拡張現実(Augumented Reality)の考え方をAI-Webの世界だけへ閉じ込めてしまえば、それはミルトン・フリードマン or ハイエクら新自由主義者が「市場原理なる超観念的な設計主義の罠」に嵌った「概念硬化」と同轍となる。

一方で、マルクス・ガブリエルの「新実存主義」が主張するとおり、ヒトの想像力は無限であり、その意味で人間社会の持続性を保障することになる!そして、それは歴史・文化、芸術、文学、音楽etc.らのベースとなる凡ゆる暗黙知はリアル自然世界への拡がりであることをも意味する。

それは、その“外界の思考”へと拡がりつつ地球上の生命・自然トータルと常に共鳴し続ける新実存主義的なアナログ・ワールド、つまり生命論的なリアル因果の延長である拡張現実(具体的に言えば文化・文学・芸術活動など)の世界は無限であるということだ。なお、この論点は更に「文化資本(文化資本主義経済学)」の問題へ繋がるが、ここでは割愛する。

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▲文化資本とは、例えば池上英子『江戸期プロトモダニティ(美と礼節の絆↑画像)http://u0u0.net/EyAB』の如き伝統・文化から生まれるスピリットを地域の伝統産業などの中に取り込みつつ内在化させて、そこから新たな外在性(偏執的なマネタリズム市場原理を超えた付加価値創造(or潜性イノヴェーション)的な視点の発見など)を生み出す、まさに「“リベラル共和主義”の時代に相応しく、ノモス(nomos/古代ギリシャのノモス法そのもの、あるいは其処に住む住民が平等に与えられる“ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前”のこと)とエトノスも十分視野に入れた持続的で漸進的な経済活動の原動力となり得るもの」である。https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20170713/p1

<補足>「AI‐DL導入」で特に留意すべきこと/「人がやるべき仕事の発見」に照らして

これは「人がやるべき仕事の発見と創生/“AIで消滅の危機に瀕する?とされるヒトの仕事の復権”に関わる方向性」という、非常に重要な課題と深くクロスすると思われるが、ここでは特に留意すべき点の記述に止めておく。
<「ディープ・ラーニングの判定結果による顧客への提案と個々の顧客がそれに十分満足するか否か」の問題>には<軽く見過ごすべきでない重要な問題点>が潜んでいる。当然のことだが、ヒトがつくるものやヒトのサービスに個々の顧客が十分満足することが続けばリアル経済の価値が高まり、ヒトの生産性が伸びることになる訳だが、これはヒトの意識作用の一環である抽象化がヒトの脳内(そして生命個体内)の活動であるため、それが刻々と変容する凡ゆる地球上の「リアルな自然・社会のエルゴンおよびエネルゲイア」(潜性・顕性の両活動エネルギー)と共時的に繋がっていることに因ると思われる。
言い換えれば、それは製造・販売・サービスを提供する側と顧客側とがビジネス現場で、そのような意味では大きな暗黙知の支配下にある「リアル経済」の新たな可能性(潜性イノヴェーション世界)を常在的に共有していることに因ると考えられる。
一方で、ビッグデータ解析の結果である「AI機械計算またはディープ・ラーニングの予測値」(解析フィルター仕掛けの圧縮化、つまり中立的と想定されるビッグ母集団の解析に因る機械的な抽象化に因る予測値はリアルな自然や社会と同期的(マッハ感覚論的素材性的)には繋がっていない。

それは、いわば高度デジタル抽象的な形式知の世界とリアル経済の間には、見逃すべきでない絶対的な「人間の壁2」(断絶/労働生産性VsAI等“機械高度生産性”に因る超格差の拡大トレンド、およびそのことに因る人々の不満や不安心理の拡大)があるためである。そのため人的に省力化されたビジネス現場では、実に皮肉なことであるが、高度な専門知とは全く無関係な人的サービスを顧客側から求められるケースも発生している。無論、これは現下の「新コロナパンデミック」対応のテレワークとは全く次元が異なることである。

[2]新時代の倫理の前提1/「“赤の女王”の足枷」の問題
・・・当記事の冒頭でも取り上げたが、新時代の“倫理”と深く関わることになる「“赤の女王”の足枷」の問題にふれておく・・・
<注>「赤の女王」とはルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス』に登場する人物であり、彼女が作中で発した「その場にとどまるためには全力で走り続けなければならない(It takes all the running you can do, to keep in the same place.)」という台詞から、種・個体・遺伝子が生き残るためには進化し続けなければならないことの比喩として用いられている。

・・・

これは、アメリカの進化生物学者リー・ヴァン・ヴェーレン(Leigh M. Van Valen/1935 -2010)が1973年に提唱した、「全生命(自然環境)系を根源的に支配すると見るべき、(a)敵対的な関係にある「種」の間での進化論的軍拡競争と(上位層)、(b)生殖におけるダーウイン進化論的な有性生殖の利点を巡る競争(下位層)なる、二つの異次元の進化現象についての統合的な説明」(永続性の原理↓▼)の象徴である。

この「a、b」二つの異次元相の激烈な競争の結果として、もし唯一の生き残りが生じたとすると、それは必ずゼロサム(All-or-nothingで利害の総和がゼロになること)となり、生物種そのものが、ひいては生命そのものが自然界(地球上)から消滅することもあり得る(よりミクロな、あるいはよりマクロな生命・環境系も視野に入れれば、必ずしもそうとは言い切れぬかもしれないが)。

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『自由の命運 上、下:国家。社会、そして狭い回廊/↑画像』(早川書房)の著者、ダロン・アセモグルと ジェイムズ ・A. ロビンソンは、このような考え方を「政治経済」社会の分析(政治・経済を一強支配しようとする権力(構造)、専横のリヴァイアサンの分析)にあてはめ自由の命運を論じているが、結局、我われ人類が“自らの生命を永続させる”ためには、自然界を含めた広大な視野で『足枷のリヴァイアサン(赤の女王)』(組織化した民主主義社会による赤の女王の制御システム(足枷))の再構築にエンドレスの覚悟で取り組むより他の道はありえない現実を実証的に論じている。

【 ▲またもブラックロック(世界トップ・シャドーバンク)か?FRBの透明性確保がカギ:ジリアン・テット403日経/FC、・・・リーマン以降、現在に至るまでのアメリカ経済の「回復」は、・・・もっぱらレント経済へ注力した「マネー&金融マネージャー資本主義」の再生にすぎない。しかも、いまや又アメリカのみならず全世界がポスト・コロナパンデミックがもたらす深刻な構造不況に襲われている。(再び、99%国民層の餌食(ルンペン・プロレタリアート)化を狙って!/補、toxandoria・・・】https://www.nikkei.com/article/DGKKZO57560620S0A400C2TCR000

そもそも、エトノス内におけるエントロピー解放手段としての暴力装置(暴政、戦争、財政危機など)を内蔵せざるを得ない国家(統治パターナリズム)の基盤である「法」の根源が、C.シュミット、ハイデガー、H・アレントらの如くノモス(nomos/古代ギリシャのノモス法そのもの、あるいは其処に住む住民が平等に与えられる“ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前”のこと)だと見る位置に立てば、H・アレントの「社会」の先に、政治・経済が協働して当たるべき真の役割(アレントの難解さをフーコーの視座で再構成したもの/@稲葉振一郎『政治の理論‐リベラルな共和主義のために‐』(中公選書))が見えてくる。

それこそが、そこから浮上する「リベラル共和主義」(リベラリズムと共和主義の十分な均衡による貧困問題などの根本的解決)という新たな方向性だ。尤も、大革命から約100年後に成立した第三共和国のフランス では、リベラル共和的な方向性が既に意識されてはいたが・・・(参照→https://note.com/toxandoria2/n/n71729a662785)。そこでは<「現代の民主主義国家における統治権力(パターナリズム)と個々の労働者の間を仲介する「労働組合の役割」をノモス法の原点と照らして本格的に見直す>ことが最も重要な課題である。

つまり、一般の国民・市民層の『日常生活の営み』という日常経済のリアリズム(潜性イノヴェーション)の活性化に関わる政治活動に、常時、取り組むことが最も重要な労働組合の役割であり、特に<無産化したルンペン・プロレタリアートの有産化>への取り組みが急務である。

別にいえば、資本主義社会において本来あるまじき只の既得権「保守機関」へ変質した日本の名立たる大企業(群)と労働組合など、例えば日本「原子村」または(株)電通らの「メディア&ジャーナリズム監視・統括」企業、および連合を筆頭とする「 労働組合」(これらのことごとくは、今や只の「レント(過剰利潤)の死守機関」化、いわばマネー&金融マネージャー資本主義の尖兵たる「赤の女王」の暴走のための旗振り役と化した!)を“一般社員(一般市民層)の日常生活とビジネスの活性(政治意識)化”を支え得る本来の有意な組織へと、そのあり方を見直す)」のが重要だということである(同上『政治の理論』。
・・・(参考)◆政治的地位or金融工学式“労働節約型技術”等に悪乗りの連合らと同轍で特権レント構造に胡坐をかきアンシャンレジーム化したメディア界の仕切り屋らしい傲慢なへ理屈! →電通副社長「経産省ルールに則った、通常業務より低い利益」 持続化給付金の再委託で会見608ThePAGE https://twitter.com/tadanoossan2/status/1270100675104366592

「労働組合」は、本格的にリベラル共和主義を志向する時代にこそ、貧困の根本的な解決のために必須の“産業民主主義(国民のための産業組織論)のベース・キャンプ”となるべきだ。そこへ、もう一つ加えるべきは(内外の市民層が主役となるアソシエーションの問題(@日下部 史郎『新自由主義に抗して―スーザン・ジョージと世界市民運動―』(SSBパブリケーションズ))である。
因みに、自然(自然環境)系における「in vitro (実験環境内)とin vivo(実験環境外) の区別」は研究分野によって多少異なっている。それは、「どのレベルを生きている環境系と見るかの違い」ということに因る。そのため、「生命環境そのものについての理解」は相対的になる。だから、ヒトが認識している自然についても、(1)地球環境の内外で分ける(即ち、“内=自然(生命系)、外=非自然(非生命系)”)とする考え方と、(2)地球環境~全宇宙までを含めてオール自然と見なす考え方、の二通りが成り立つ。そして、例えば「AIシンギュラリティ」論は明らかに(2)の立場である。

(補足)▼「永続性の原理」について

自然界の一部たる人間社会もある意味で広義の「永続性の原理」(持続的な対称性バイアス、つまり同調圧力のジャンル(自然界でも作用する物理・化学的な相転移・熱伝導・濃度希釈など広義の“忖度・同調”への傾斜圧力)の誘惑を可能な限り断ち切り、または遅らせつつ最大限に定常性を維持するため暗黙知に照らしたリスク分散/その全体を保証する原理が、おそらくハーネス調教に似る自然計算のプロセス(関連/Cf.↓★))で補完されている可能性が高い。

★想定上の完全AIアンドロイドはなぜ胡散臭いのか? それは「アナログ/自然計算(“暗黙知”ワールド?)」と「デジタル/AIディープラーニング(“形式知”抽出マシンワールド?)」の溝の深さによる?(仮説)、https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/125003
・・・

ただ、「民主主義は未完の営為であるとの謙虚さ」(これが倫理観の大地!)を前提にすれば、厳密には「永続性の原理」にもローカル自然環境や広義の伝統文化または歴史発展的な意味でのヴァリエーションがある。そして、その典型が現代の民主主義の維持を目的とするヴォルテールの合理的精神による権力批判の実践ということに刺激を受け、モンテスキューが着想した<「三権分立」に「メディア(第4権力)」が加わる権力分散(四つの権力)の形>である。そして、これが現代民主主義の「法の支配の原則(法と秩序)」の中核である。
◆「第4権力」の意識が殆ど希薄化した(あるいは疾うに捨て去った!)日本メディアの謎?(苦w)、https://twitter.com/tadanoossan2/status/1230623511305080833
◆両者に質の差はあるが今の「日アベ・米トランプ」はファッショ2.0で同義! ポスト<新コロナパンデミック、「日米の一強ファッショ権力」凋落>の重要な課題は「赤の女王」↓★暴走の国際協調による抑制! →トランプ氏大敗か 米失業率、選挙時2桁も525時事 https://www.jiji.com/jc/article?k=2020052500111&g=int
そして、この民主主義のあり方こそが「剥出しの、換言すれば善・悪を超越した苛烈なゼロサムの生存競争」に曝される生物・動物一般との「良い意味での違い」(信頼に基づく人間社会)を保証してきたといえる。

しかし、そこには「人間社会」故の逆説ともいえる、自身がまさに「赤の女王」の化身であるという恐るべき現実が一切視野に入らぬ(又は、それを敢えて無視しようとする)ゼロサムの「ファシズム」が出現する可能性が必ず潜んでいる。

従って、「赤の女王」の暴走を抑止するための足枷が、つまり「全ての国民による“倫理”観の共有ということ、および権力を縛るための法の支配の“四つの権力の形”」が民主主義には必須条件であることが理解できる。

[3]新時代の倫理の前提2/マクダウエル「リアリズム倫理」の核心と見るべき選言説
・・・マクダウエル倫理学の核心=近代的二項対立に陥る以前の古代ギリシア的(プラトンと和解・融和したという意味でのアリストテレス的)な世界観を範に採るべきだとの主張・・・https://www.philosophy.pitt.edu/person/john-mcdowell
<注>ジョン・マクダウエル/John McDowell(1942‐ )・・・ピッツバーグ大学教授. オックスフォード大学講師を経て 1986年より現職/研究分野は多岐にわたりプラトン・アリストテレスに代表される古代ギリシア哲学、倫理学、言語哲学、 認識論、心の哲学、ヴィトゲンシュタイン研究などで大きな影響力のある論考を発表している。.カント、ヘーゲル研究でも知られるが、日米および欧州などで跋扈するマイファースト・自己責任論・多様性否定主義あるいは表層的なAI万能論が囃される昨今(関連参照↓ブログ記事★)であるからこそ、そのユニークな「リアリズム倫理」(道徳的実在論/自然と対比的に、それを第二の本性(自然)と位置付ける)が注目されている。つまり、ジョン・マクダウエルは、かつてヒト(人類)が理解していた筈の【根源的かつコンシリエンス的な“想像力”(人文・科学知の融和・和解的統合)に因るリアリズム/コンシリエンス・リアリズムとでも呼ぶべきか?】の自覚(復権)こそが、愈々、必須になると警鐘を鳴らしていることになる。
★AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができるhttps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

一般に我われは人間の心について、普通<それはコギトエルゴスム(cogito、ergo sum/我思う、故に我あり)のデカルトが考えたような物理的世界には何ものをも負わない実体とされるか(マクダウエルの言う『威丈高なプラトニズム』/恰もハイエクとミルトン・フリードマンが嵌ったリバタリアニズム(抽象合理一神教とでも言う他に言いようがないほど異常に強度の概念硬化がもたらした完全自由主義)が連想されて興味深い!)、逆に物性物理的な性質に還元されて説明されるか(同じくマクダウエルが言う『露骨な自然主義』/“観念Vs自然”なる二元論の対概念としての自然の意味であり、その立場からすれば、例えばマルクス・ガブリエルの新実在論(外界の思考)なども絶対に認められないことになるだろう!)という二者択一に常に迫られるというジレンマに陥っていることになる。

マクダウエルは、このような「威丈高なプラトニズム」と「露骨な自然主義」とが実は共犯関係にある(普通、我われはそれにより騙されている)ので、今やAI‐コンピュータがほぼ万能視されるような時代になったからこそ、そのような近代的二項対立に陥る以前の古代ギリシャ的(プラトンと和解・融和したという意味でのアリストテレス的)な世界観を範に採るべきだと主張している(これが、マクダウエル・リアリズム倫理学の核心!/出典:現代独仏圏の哲学的人間学とジョン・マクダウエルのアリストテレス的自然主義(岩手大学、音喜多信博/KAKENhttps://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-17K02156/
マクダウエルが言う「今こそ我われが範に採るべき“近代的二項対立に陥る以前のアリストテレス的な世界観”」ということを言い換えれば、それは「ガダマーがディルタイの生の哲学のなかに再発見したとされる“古代ギリシア・ローマにまで遡る「現代人がすっかり忘れ去ったリベラル・アーツ的な観念”であり、それこそがヒト故の豊かな想像力の源泉」(その流れの二大潮流がプラトンとアリストテレスの和解・融和ということ/そして、これは見方次第のことながら、アリストテレス主義(徳の倫理学/二コマコス倫理学)がプラトン主義を批判的に受け止めつつも深く理解し、同様にプラトン主義(敬虔(謙虚さ)の倫理学)もアリストテレスの徳の倫理学を批判的に受け止め深く理解していたと考えられること)であったのではないか?と思われる。(Cf.https://kimihikohiraoka.hatenablog.com/entry/20120422/p1 、https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

・・・マクダウエル『リアリズム倫理学』の核心はヒトの意識を“第二の自然”と見なし、それを“第一の自然”(地球環境)と同等に位置づける点にある・・・
たまたまの邂逅であるが、<20190827朝日「文化・文芸」欄の『スマホ・AI、言語を変える/コンピューターは想像が苦手?』という記事>は興味深い内容であった。
それは、我われが<スマホ・AIによって言語の質そのものが根本から変わりつつある(話し言葉が書き言葉の中に入ってきた?!ヒトの意識と異質なコンピューターは文脈的・文法的な意味は分からないが、それは人間同士の言語の使い方とは全く異なるコミュニケーションの形を創造しつつある?)時代に入ったというユニークな指摘に加えて、コンピューターはヒトの最もヒトらしい特徴と見るべき「想像」( imagination)が苦手である!?(従って、益々、これからの時代において我われヒトの会話と文章、つまりその意識から想像力が失われて“我われが動物化”する宿命にあるのでは?)という、当ブログ記事のテーマでもある「ヒト故の想像力のユニークさ(特に、そのあらゆる意味での“潜性イノヴェーション”の宝庫でもあり得るという意味での重要性)を本格AI化の時代に入りつつある今こそ再認識すべきだ!という問題意識」と重なる論点を提供しているからだ。

[4]ハイエク哲学の限界をブレークスルーするマルクス・ガブリエル『新実在論』、“外界の思考”の視座(リアリズム倫理の核心となるか?)

ハイエクは著書『隷属への道』(1944)で<「ファシズム政権や社会主義者が主張する分配的正義は人間の意図せざる行為の結果として市場において自生する自生的秩序(Catalaxy)が実現する交換的正義には敵わない。なぜなら、仮に金持ちから余剰なカネを奪い取り、それを社会的な弱者層へ平等に分配する(分配的正義を実現する)ことが可能であるとしても、それは一強・強権独裁化したファシズム国家でしかあり得ないことになるからだ。>という「趣旨のこと」を主張する。

また、そのためハイエクは「長い歴史的な時間をかけ自生的に形成された言語・慣習・伝統および市場の知識を遥かに超えた大いなる力が、つまり人間の力を超えた意図せざる結果として自生的な秩序が市場のなかで生まれる」ことを最重視すべきだとも主張する。
たしかに、このような視点は重要であり、それは現代「知」の先端と見るべき「エトノス(ヒト・自然・文化環境)論、新実存主義(@マルクス・ガブリエル/↓▲)、批判実存論(Critical Realism)」などの先取りかと見紛うばかりである。
▲マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel/1984 - /ドイツの哲学者、ボン大学教授)の新実存主義/序論:穏健な(“普通の”のニュアンス/補、toxandoria)自然主義と、還元論への人間主義的 抵抗(廣瀬 覚訳、2020.1.21/岩波文庫)

・・・以下は、当著書の序章「ジョスラン・マクリュール(Joceran Maclure/ラヴァル大学教授/1973- )のガブリエル・新実存主義についての紹介文」より部分転載。・・・

ガブリエルは、数々の形而上学の重要問題について、大胆な見解を唱えている。たとえば、以前の著作では、存在論や認識論で構成主義(自然科学に似た要素還元論的な)が乱用されるいま、新たな実在論が求められていると論じた。
我われの現実(日常的な)をかたちづくる対象領域―すなわち「意味の場」(つまり『日常』/補、toxandoria)―の多元性(マッハ感覚論的素材性(‐実在性)/補、toxandoria/関連参照↓★)を中心に据えた実在論である。

★マッハ感覚論的素材性(実在性)について:再び、マッハ現象学とマッハ感覚論的素材論(性)についての考察が必須、https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180701/p1
★同上関連/西田哲学の形成に影響を及ぼした現代物理学の影響についての思想史的考察:矢崎彰(早稲田大学大学院博士課程)http://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/1994_21_hikaku_10_yazaki.pdf

★日本哲学という意味の場—ガブリエルと日本哲学/浅沼光樹:西田幾多郎とマルクス・ガブリエル、特に「場所」以後の西田と『なぜ世界は存在しないのか』におけるガブリエルの基本思想の類似を指摘する!https://www.evernote.com/shard/s440/sh/10ae5d94-4fb6-444c-be2a-6f296cc224f0/1c472734a1d9d1ebdc7a6b98d0d387c6
心の哲学の研究者も、神経科学者や認知科学者も、ガブリエルとコメンテーターの個々の議論に疑問を抱き、そこにある不備をとがめようと思う人は少なくないはずである。そして、それこそが健全というものだ。それでこそ、新実存主義はより強固なものに育っていける。
だが、アカデミズムの有力な一角で、また文化の広範な領域で、換言論的自然主義(特に、一部のAI系研究者やフィンテック系の投資コンサルタントらに見られる素朴な!の謂いでの/補、toxandoria)が幅を利かせる現状に不安を抱く者にとって、ガブリエルらの見方が抵抗の時の到来を告げるものであることは確かなのだ。

私(ジョスラン・マクリュール)の目に映る「心は頭のなかだけにあるのではないと考えるガブリエル」とは、抜き難い心の文化的・社会的側面に注意を促す哲学的人類学者というものだ。

・・・ここで、ガブリエル・新実存主義についての紹介文からの部分転載おわり・・・

このようなことから見る限りにおいては、マルクス・ガブリエルの哲学的人類学者のイメージが、ある程度まで後述する≪ハイエクのカタラクシーに特徴的な考え方≫に重なる点のあることが興味深い。
ただ、ハイエクの場合、それはガブリエルの所謂「ヒトの意識(心)の“絶えざる多様性と開放性”の創出の作用」(更に付言すれば、デューイのプラグマティズムの共有的な自由(自由の共有)意識、つまり“凡人の言明の保障の意義”なる暗黙知の重要な役割についての理解)という水準まで深まることはない。

それどころか、折角のその貴重なエントランス部分への気付きが、結局は、もう一つのハイエクの関心事であり、ハイエク自身の大きな拘りでもあった自由市場原理主義(個の完全自由に基づく市場原理を崇拝するリバタリアニズム(その完全自由主義なる超設計主義(自己撞着)があらゆる埒外の余人の自由を厳しく規制するリバタリアニズム2.0)、つまりリバタリアニズムという経済計画論(完全な個の自由の絶対保全)による新しいタイプのリバタリアニズム国家(開放系の多様性を排除し市場原理の埒外の一切の価値観を否定する方向)に回収されている、と思われる。
片やミルトン・フリードマン については、シカゴ大学時代に同期で同僚でもあった宇沢弘文の証言によるとフリードマン自身が金融投機のカラ売りで一儲けすることに熱中するタイプのリバタリアニスト( The Complete Libertarianist)であったようだ。だから、ミルトン・フリードマンはガブリエル哲学的な意味での実存主義的な理解とは程遠い世界のヒトであったようだ。

ただ、ミルトン・フリードマンの名誉のために補足しておけば、既述のとおり<「重要論文F35」の読み直しから、実は<フリードマンが「諸経済理論F・システム大系を哲学的視点でネットワーク化し、真の経済理論が完成する迄のさし当りの道具としての市場原理である/道具主義(プラグマティズム)の市場原理」>と考えていた節がある。>という説もある。天才とされる経済学者フリードマンも、ハイエクに負けず劣らずの大いに迷える人間であったのかもしれない。
とすれば、ハイエク、フリードマンら新自由主義の聖人たちの正体と欠点を或る程度は知りながらも、それを巧みに政治利用して私腹を肥やし、只管お仲間らの権力強化にうつつをぬかして我が世の春を謳歌する輩(例えば現代日本の安倍晋三・首相(ファシズム2.0政権の領袖)や竹中平蔵ら)の如き、余りにも野蛮で狡猾で強欲な政治家や盗人同然の御用学者は、この<市場原理主義の二大聖人>に対しても大いに無礼なのではなかろうか?w。 

[完]
















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