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2020(2021年)東京五輪が物語作りに及ぼす影響の思案

 さて、最近は「リアルタイム」で情報を追いかけることの弊害を感じることが多く、なんでもあえて一歩遅れて情報に目を通すようにしています。それでも十年前に比べれば、あらゆる情報の伝達速度が向上しているため、同時性としては十分すぎるほどだと感じます。
 「リアルタイム」の情報には、おびただしい数の憶測や一時の感情論が混じるものが多く、そんなものにとらわれることのほうが厄介です。とりわけ政治色の濃いイベントを注視し続けると、得体の知れない思惑にいつの間にか乗せられてしまいかねません。東京五輪に関しては選手の勝敗ですら、そうした思惑が遠ざかったあとでないと、結果を知る気にはなれないというのが正直なところです。
 そんなわけで今回の五輪については、過ぎ去ったあとで改めて開催が決定した2013年から2021年までを振り返り、その意義や問題、そして今後の物語作りにどのような影響を残したのかを考えたいところです。
 またその際に重視すべきは、第一に「多様性(人権問題)」の行方、第二に「パン(現実の生活)とサーカス(祝祭の物語)」の政治が今後どうなるかであり、ここでは、これら二点について述べ、備忘録としたい次第です。

 まず、この頃とみに謳われるようになった「多様性」ですが、そもそもすでに我々の環境はかつてなく多様化しています。
 情報テクノロジーと世界中での交通網の発達によって、多数の人々が、それまで存在をまともに認識していなかった相手と、出会いも交流も経ずして、いきなり「つながり」を得ました。
 初めて互いを認識するようになったその近隣ないし遠隔の他者を、再び無視することが難しい背景の一つに、ちょうど日本の少子高齢化により自国人だけでは様々な面で成り立たなくなっていった現実があります。
 東京五輪の開催が決定した2013年には、特に建設業や介護で労働供給の問題が指摘されています。労働力が限られていく一方、消費も減り、自国のニーズやインフラだけでは従来の利益を出すことができず、海外ニーズを無視できなくなっていきました。
 こうして閉鎖的で暗黙の了解によって成り立つ旧来の「単一性のコミュニティ」が経済面から限界をきたす一方、情報テクノロジーを通してこれまでと異なる価値観が流入したことで、「本当は嫌だけど多様性に付き合わねばならなくなった」というのが多くの日本人の本音でしょう。
 多様性は究極的に「たとえ共感も理解もできず嫌悪を催す相手であっても、互いの存在と権利を認め合う」ことを求めます。このため日本に限らず、抵抗を覚えながら妥協点を探るという議論がみられるようになりました。
 世界の多くのコミュニティで、美徳や義務としての多様性がしきりと謳われているということは、ひるがえって、激変した環境に人の心が追いついていない証拠といえます。
 そのため一部のフィクションは、その鬱憤を晴らしたり、妥協点が正当かどうかを問う役割を担うようになったのだと思います。
 しかしフィクションですら、いまだ最終的な解決がはっきりしない最大の原因は、そもそも従来の統治の仕組みが多様性を拒否することで成り立っているからです。
 結論から述べれば、多様性を最も嫌い、脅威とみなしているのは、権力者に他ならないのですが、多くの民衆もその心情に同調しがちで、多様性が旧来の秩序と相反することを反対する根拠としています。
 そのため日本でも、「どうしたらなるべく現状を変えずに済むか」を模索している人々がおり、多様性の受け入れへの強い抵抗を担っていると言えるでしょう。
 日本における同性婚、夫婦別姓、入管法などの議論には、失われゆく一方の「単一性のコミュニティの中にとどまっていたい」という日本人の願望がはっきりとあらわれています。
 もし本当にあらゆる多様性を受け入れてしまったら、日本人同士の問題に真剣に目を向けねばならないばかりか、様々な義務も生じます。これまで歓迎してきた「金持ちの外国人」だけでなく、日本で教育を受けられない外国人の子どもたちの救済や、難民の受け入れといったことが、いっそう求められるようになります。
 ここでいう受け入れとは、ただ住まわせるだけでなく、一切の権利を与えることを言います。教育、福祉、あるいは参政権といった権利を与え、同胞として認めねばなりません。
 日本人だけでなく多くのコミュニティが最も嫌うことであり、今後ますます反動が激しくなるでしょう。
 日本での労働を求めて失踪したウガンダ人への冷笑的あるいは攻撃的な態度には、「世界の貧困の問題を他人事とし、貧しい外国人を排斥する」単一性のコミュニティの態度が強くあらわれており、今後この国での反動がいかなるものであるかを予期させます。
 しかし多様化が世界の潮流であり続ける限り、表面的にはその反動を抑え、受け入れたということにせねばなりません。
 東京五輪を通してあたかも日本人が多様性を歓迎しているかのような物語が喧伝されていますが、実際はどうでしょうか。
 日本人同士の問題である「いじめ」「差別」についてさえ、「どうしたら、それらをなくせるのか」という本来の議論が忘れ去られ、「どうしたらなかったことにできるか」に終始していると言えます。
 「いじめた誰か」や「差別的発言をした誰か」を排斥することによって、あたかも残った人間が「加担しなかった良い人たち」であり、もう何の問題もないかのように振る舞っています。これは「もう自分たちは多様性を受け入れたのだからこれ以上変わる必要が無い」というエクスキューズに他なりません。
 こうしたエクスキューズが積み重なり続けると、問題点を指摘することが難しくなるだけでなく、やがて議論をすること自体がタブー視されてしまいます。当然ながら、物語作りにおいて、作り手と受け手の心の持ちように歪んだ影響を残すことになります。
 そして最も懸念すべきは、その影響が「連鎖」を作ってしまうことです。
 たとえば、多様性への反動で「現実を忘れさせると同時に、より抑圧的で排他的な魔女狩りめいた物語」がリアリティを持つものとして歓迎されるようになったとき、そうしたニーズに素直に従うとどうなるでしょう。無自覚のうちに多様性の受け入れを遠ざけることに加担し、かと思うとあるとき突如として「人を傷つけていた」ということで非難され、気づけば自身が魔女狩りの対象となり、新たなエクスキューズの材料とされかねません。
 学校で、積極的にいじめに加担していた人間が、あるときその行為を指摘され、今度はいじめられる側になる、というのとまったく同じです。
 この問題がとても根深いのは、そもそもの原因がエクスキューズの積み重ねにあり、そして参加者全員に責任があるからです。
 何も解決していないのに解決しているふりをし続ける、全ての無自覚な人々に責任があるのですが、誰もが「自分は悪くない」と思っているため、防止策は効果がなく、被害者は救済されず、それどころかいずれまた新たな被害者が出るのは明らかであり、それが自分ではないことを願いながら、いっそうエクスキューズに賛同するという「連鎖」がコミュニティの常識となります。
 こうして、本来積極的に賛同すべき多様性の訴えが、ひるがえってこの国に誰もが密告を恐れる魔女狩り社会を招くであろうことは十分に予想されることであり、東京五輪はその未来をはっきり示したといえます。
 我々は今後ますます神経質な社会で物語を書かねばならず、本来のクリエイティビティをいたずらに抑制されないよう、常に適切な距離を保ち、様々な手段を駆使して客観性を獲得し続けることに、相当な労力を費やさねばならなくなるでしょう。そのストレスを巧みにクリエイティビティに結びつける手段を何としても探す必要があり、さもなくばどのような作り手も、恐れて沈黙するか、怒って暴発するほかなくなります。

 次にもう一点。
 権力者が民衆に与える「パン(現実の生活)とサーカス(祝祭の物語)」というものの見方からすると、東京五輪はとりわけ都民の生活に痛みをしいた上で開催されたことから、「パンを奪って、サーカスを催した」と言えます。
 こうした統治手法を採用した権力者は、実は過去に多くの例があり、世に知られた独裁者が名を連ねます。たとえばスターリンは饑餓を意図的に無視しました。外貨獲得のため飢えた民衆から穀物を奪って海外に売る、いわゆる飢餓輸出を強行したのです。
 権力者にとって重要なのは権力の維持と財政を潤すことであり、民衆が困窮することは、実は大して怖いことではありません。困窮する民衆は経済力がないことから結束力と発信力を失うため脅威にならないからです。
 むしろ多少民衆が飢えて弱ってくれていたほうが都合がいいと言えます。何しろ、ちょっとしたことでも喜んでくれるようになるのですから。
 貧苦がひどくなると、いずれ民衆が権力者の打倒に向かうのではないかと思われがちですが、しかしそのためには経済力を持つ別の勢力の主導や支援が必要です。
 戦国時代における「一向一揆」は、ただ貧民が決起したのではなく、潤沢な資金を持つ宗教的な勢力が背後にいたからこそ実現可能でした。ブルジョワ革命の成功なども、革命を支える新たな勢力が登場したからこそです。
 権力者としては、そうした勢力を取り込んだり、根絶やしにしさえすれば、民衆の飢えは放置していいのです。
 ただし、いよいよ民衆の不満が広まり、抵抗勢力が乱立して潰しきれなくなると、さすがに権力者にとっても脅威となります。
 そこで多くの権力者が採用してきたのが、派手派手しい祝祭を催して、権力者の正当性を訴え、民衆に自分たちを誉め称えさせる、という統治手法です。
 まさに東京五輪がそのようにして催され、あたかもアメリカの大統領選か豊臣秀吉の「北野大茶湯」がごとき盛大さとなりましたが、問題は、その手法が上手くいかなかったときです。
 もし、大出費をいとわず催された祝祭でも治めることが難しくなった場合、どうなるでしょうか?
 どんな権力者も、たいてい最も強硬な手段を採用してきました。国の内外に敵を作り上げ、民衆を臨戦態勢にすることで、一切の不満を「誰か」へ向かわせるのです。
 この巨大なガス抜き政策が、多様性の容認とかけ離れているだけでなく、まかり間違えばとてつもない犠牲を生み出す統治手法であることは言うまでもありません。日本人も、過去そうしてたびたび、途方もない犠牲をしいられてきましたし、国の内外に荒廃をもたらしてきました。
 この現代で決してそんなことは起こらないと信じるのは、とても危険なことです。なぜなら「多様性のエクスキューズ」「魔女狩り」「国の内外での敵作り」が、いかに相性が良く、相乗効果をもたらすか、過去十年の世界の出来事からして明らかであるからです。
 権力者は、敵を作ったあとで責任を持ちません。敵と闘争を繰り広げるのも荒廃するのも民衆です。もし「闘争を引き起こせる」という事実が、首尾良く対抗勢力を恐れさせる効果を発揮してくれるならば、権力者にとっては権力維持のための何よりの支えになります。
 「パンを奪い、サーカスを催す」という政策の一歩先にある深刻な現実を、我々は忘れるべきではないでしょう。もし権力者がサーカスからさらに先へと誤った一歩を踏んだとき、多様性などというものは意図的に破壊されます。統治の最終手段として民衆から自由な態度を奪い、民衆はなすすべとてなく、権力者と戦うか、従属して誰かと戦わされるか、全てから逃げるかの選択を迫られます。
 こうして、権力者の都合によって望まぬ紛争に心身を費やし、あるいは亡命を求めるほかない人々が世界には大勢います。世界のまつろわぬ人々が今まさにしいられている辛苦は決して人ごとではなく、日本人とていつそうなるかわかりません。
 幸い、世界的にも稀に見るほど恵まれた日本国に住まう我々においては、多様性を命じることとなった情報テクノロジーのおかげで、学び、議論し、結束し、発信することに要する資金が、一世紀前に比べて激減しました。
 このコロナ禍においても、携帯電話一つで、誰かと意見を交わすことができます。かつては手紙という手段しかなく、集会を開くことにも資金を要したことを思えば、途方もない変化です。
 さらには選挙という、為政者交代の手段も、幸運なことに存在します。
 ただ不遇なのは、今も日本の政権維持の最たる手段が、必死に対抗馬の芽を潰すことで他に候補者がいない状態を維持することであるという点です。
 これは過去、小規模な独裁政権というべき地方豪族や有力大名がしてきた政争の現代版と言えます。特定の「お家」が牛耳る社会の方がはるかに歴史が長く、それが経済や教育においてもまだまだ常識として根づいたままであることを思えば、日本の民主主義社会は、最初に試みられて以来まだ二世紀も経っていない未熟な状態にあるとみなすべきでしょう。
 よって物語作りにおいては、この古い秩序にもとづいて書きながら、危機的状況が迫っているかどうかを常に推し量りつつ、今後の理想的なありかたを模索する日々が続くでしょう。

 さて、いつか日本の民主主義がいっそう成熟し、民衆がパンもサーカスも自分たちの意思で手にする日が来るには、当然ながら民衆の新たな、空前絶後の結束が必要不可欠です。
 そしてそこで最も大きな力となるのが、権力者が最も恐れる「多様性の受け入れ」なのです。単純な話、多様性の受け入れが進めば進むほど「数の力」に直結して、どのような権力者も無視できない勢力を生み出すことになるからです。この点で、多様性は取り立てて新しい考え方ではなく、世界中で何度も試みられては頓挫したり少しずつ進んできたことだと言えます。
 では、ここからさらに多様性の受け入れを正しく推し進めるには、どうしたらいいでしょうか?

 誰もが誰かを裁く権利はないと知るとともに、全ての訴えが等しく聞き届けられねばなりません。
 不和はいつでも起こることであるからこそ誰もがその解決の工夫に知恵を尽くさねばなりません。
 排斥は何の解決にもならず、ただ排斥するかされるかという競争が生じるだけであると理解しなければなりません。
 沈黙をしいることは、どのような場合でも決して許されないこととされねばなりません。
 どのような議論も相手を黙らせることを目的とするのではなく、より有意義な議論を導くためのものとならねばなりません。
 あらゆる攻撃的な態度は同士討ちに過ぎないとみなされねばなりません。
 困窮する状況を利用して利益を得ることを禁じねばなりません。
 教育とは自分の子どもだけを有利に養育するのではなく、全ての子どものためのものであると考えねばなりません。
 全ての発信する力は、異論に耳を傾ける力ともならねばなりません。

 などなど、一つずつ挙げていけばきりがないほどの、途方もない課題の数々を乗り越えない限り、多様性の受け入れは成し遂げられません。
 逆に言えば、多様性が無視できない理由は、間違いなく世界に新たな秩序をもたらすからであり、だからこそ「多様性とは何であるか」を深く議論する必要があるのです。
 これからの世がどうなるかはまったく不明ですが、今後いっそう、おびただしい情報が飛び交い、因果関係の把握が難しくなることでしょう。だからこそ、こうした問題点を忘れず、長い年月をかけて思案し続けることが、これからの物語り作りにおいて何より大切になるのだと思います。


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