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Forget Me Not(第9章)

これは何?
 絵を描けなくなった画家である日向理仁を中心に、湖畔で起きた失踪事件の解明を試みるお話。

第9章
 天は貪欲に空の瑞々しさを飲み干し、地はほんの僅かなおこぼれによって照らされている。ある日の昼間。とぼとぼと重い足取りで、しかし確かに歩み寄ってくる冬の準備をしていた。冬を越すための暖炉用の薪や保存のきく食糧を手の届くところに集めた。そして、ウィスキーやラム酒も。気が付けば、本数と銘柄を良い感じに確保していた。


 この冬を越えて、まだ生きようとしている?
自分が自然と行っている何気ない行動に疑問を持った時、私は自分の存在意義を問う。しつこく、いやらしく、重箱の角を突つくことを厭わず、それが揺るぎないものなのだという自信を得ようとして。
しかしこの自問自答はうまくいった試しがなく、たいていは酔いが回ってきて全てがうやむやになってしまう。
生きていることが全てなのだと。生きている者はこの世界を次世代に伝えていく責務があるのだと。自分も何かしらの形でそれを担っているのだと。
だから自分にだって、この冬を乗り越えて春を迎える権利くらいあるのだ。と。
こうして、自分を深く掘り下げた場所にしか発見し得ない問題ーそれは難解で手に負えないものばかりだーからは意図的に目を背け、知らぬ存ぜずを繰り返している。

 ただ、私は理解し始めていた。「自分自身」と「孤独」という感情との関係が移り変わっていることを。私はすでに10年もの月日を独りで過ごしてきた。自ら付き合いを避け、誰とも交わることのないように暮らしてきた。
孤独はだんだんと肥った。
最初こそ、私は孤独の支配者であり、他者との連帯の世界と孤独とを自由に行き来していたものの、気が付けばいつの間にか孤独に支配されていた。
私は選択を求められるような時には、その時々における最善の手を選んできた。努めて、そうしてきた。
未来の自分を構成するものは、この積み重ねである。

しかし、そうしてきたはずのところの結果の総体が、全くもって最悪な状況をもたらしているこの矛盾を、いったいどう解釈しようか。
善として積み上げてきた総体は知らず知らずに悪となり、また自分の筋力では支えきれなくなっていた。

夜だったのかもしれない。私は決まって夜の時間に選択を積み上げてきた。今日までの選択は夜目に善として見えたに過ぎず、陽の光のもとで見れば大したことはなかった。むしろ悪の配分の方が多かった。悪は悪に融けて内部を占め、善は月の光に表面をなぞられていただけ。
そんな選択を私は善のものとして積み上げていた。
そうして形作られた総体が現在の私であった。

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