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普通

自分は普通に呪われている

そんな言葉が今日は浮かんだのでそれについて語っていきたい。

ふと、なにがきっかけでもないが、自分の感情のゆれ、志向、言動が普通に呪われていると、そう思ったのだ。

自分は常々、「普通」でありたいと思ってしまう。
際立つ必要はない。見た目も普通でいいし、そこまで派手な生活をしなくていい。

普通のごく平凡な幸せが手に入れられればいいと。

一方で、「普通」であることを嫌っているときもある。
今は特に就活だがそれ以外でも「普通はこうだからこうするべき」、そんなことを言われるとどうしても反発して受け入れられない。

パッと見はここに「矛盾」がある。先日の初耳学の杉村太蔵が言ったような人生の矛盾、その最たる例がこれ、のようにも思える。

だから呪い。と表現した。

でも、ここまで書いてきて、それは本当に表面的なことに過ぎずもっと別のなにかがありそうだ、という思いも出てきたのでこのまま進める。

さて、自分でも今一度上からスクロールした上でまず思い浮かぶのは「人によって普通は違う」というものだ。
これはまさに自分の矛盾を生み出している最たるものだろう。

自分の普通に対して、頑固だからこそ、自分の普通を追求し、誰かの普通をはねのける。いたってシンプルな構造だ。

でもここにさらなる矛盾が生じる。自分の普通とはいえ求めているのは普通だ。なぜ他の人の普通を受け入れがたいのだろうか?

ちょっと立ち止まって考えてみる。

まとまりきらないが、たぶん、これは「普通」と「平均」、これの違い、そして自分がそれに対してどのような立ち位置に立っているかによって、その分野に対してどのくらいの熱量を持ってるかによって変わっている。そんな気がしてきた。

結局のところなにが正解かは、そういうちょっと曖昧なところで、わからないのだけども。
こうしなきゃうまく生きられない、そんな世の中も生きづらいし、
つまりは自由に生きたいのかもしれない。

自分なりの普通に徹して。それは自然と生きる、努力をせず、怠けもせず生きる、多分そんな生き方なのかもしれない。

でもそれだとやっぱり世の中は普通の幸せをくれない。いや、世間の目で幸せを規定されていて、それから思考が逃れられない時点で完全に自由な生き方なんてできないのだ。

だからこそ、自分だけの価値を確立してその呪縛から解き放たれる
つまり、呪っていたのは普通じゃなくて、多分世間の価値観、それから逃れられるように
なにかを努力していかないといけないのかもしれない。

そのなにかもわからないのだけども。

ひたすらに考える葦として生きていく。

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