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野宿とキャンプ場の決定的な違い


さて、今日はバイクとキャンプ旅について書いてみたいと思います。

私がはじめてキャンプをしたのは20年ほど前で、最初は北海道をバイクで旅するにあたり、最も経済的で楽しい宿泊手段はキャンプであろう、と思ってはじめました。

それから写真を本格的にやるようになり、早朝や夜間にカメラをかついで出発することが増え、やはり宿に泊まっては自由がないと現在でも宿泊手段はもっぱらキャンプです。

しかし昨今のキャンプ場はブームの影響か、宿とあまり変わらない不自由さに加え、手の入りすぎたキャンプサイトにどうも「何か違う」と感じていました。
最近は減りましたが以前はよく山中や海岸で野宿をしたのですが、あの野宿するときの独特の感覚がキャンプ場ではあまり感じられないのですね。

その独特な感覚とは何か??を今回は深堀りしてみます。

今回、私がこの小さな旅で利用したのは自宅の千葉県から近い茨城県の某所です。

ここは【野営が許可された森】という何ともマニアックで無骨なところなのです。

【キャンプ場】と【野営が許可された所】とは一体何が違うのでしょう。

設備が簡素、自然の地形そのまま、そういった要素もありますが私の個人的な意見としては自然という八百万の神の神氣が違います。

それも圧倒的に、です。

敷地内を散策すると不思議な空間だらけです。

一体、ここは何なんだ??そこかしこに自然のエネルギーを感じる。鳥たちの賑やかな声、虫の羽ばたく音、キツツキの音が響き、木も草も、水も風もみんな私をつつみこむ。

さて、どこにテントを張ろうか?
最初はこの場所を教えてくださった方が、よく張っておられる場所にしようか、と思ったけど竹林の方向がやたら気になる。何だろう…と視線を上に向けると。

天に向かってうねるように伸びる一本の木に意識が向いた。

「これは龍だ、登り龍…」

私が通う崇敬神社である香取神宮、産土神社である飯香岡八幡宮の参道にも、このようにうねりを描いて伸びる木がある。
私はその木を勝手に龍だと思っているのだけど、それと同じような木がまさか此処にもあるとは。

そして奥の竹林にも同じような龍の木がもう一本たたずんでいる。ここは軽く頭痛がするほど強力なエネルギーを放っている。

最初に見つけた龍の木は目の前にテントを張っていいので、迷うことなく10年愛用しているダンロップテントをそこに組み立て、一晩の私の居場所をつくった。

この日は他に誰も居ない、いわゆる完ソロだったのだけど不思議と孤独感が全くなく、何だか楽しい夜をすごした。

朝も予想通り、たいへん賑やかな鳥たちの大合唱で目覚める。ちなみに鳥は神社の眷属である場合が多い。蝶やキツネなどもそうだ。

焚火で紅はるかの焼き芋をつくり朝食を済ませて、森を散策するとまた不思議な空間を見つけた。

起きた時、テントの中で瞑想したあと、カタカムナウタヒを奏上したせいか、まるでミスマルノタマがそのまま目の前に姿を現したような場所だった。

以前に使っていたような道具類が放置されているが、楽しそうであり何となく悲しそうな空間。そこで誰かに見られているような視線を感じた。

でもそれはオバケとかではなく優しくて楽しくて、僕のことを歓迎してくれているような、友達のような氣配だった。

と、まあこんな言葉にできない不思議な感覚を全身で味わい尽くすのが野宿であり、キャンプ場だとあまり自然や霊性的なものを感じ取ることができないのです。

みなさんはレイチェルカーソンの【sense of wonder】を読んだことがありますでしょうか?読んでいない、知らない、という方はぜひ一度、読んでみることをお勧めします。

自然とは人間の魂と呼んでいるエネルギー体と本来は一体であり、その大いなる素晴らしい自然を身近に生きていくことの意味を伝えている本です。

私たち日本人の基本的な信仰である神社神道も自然崇拝です。山、海、木、岩、蝶、鳥、風や雷でさえも、すべて神さまと呼んでいるエネルギー体であり、私たちの魂も然りエネルギー体なのです。

私がキャンプ場よりも野宿を愛するのは正にレイチェルカーソンの【sense of wonder】そのものです。豊かな自然の中に身を置いて原始的な一夜を明かすと、自分にはとても無理だと思っていた悟りの境地へ少し近づけた氣がするのだから不思議です。

そんなことに思いを馳せながら湿った薪を一本、焚火にくべると立ち上がった白煙が昇り龍となり、目の前の龍の木と見事に重なった。

登り龍よ、高天の原の神々によろしく伝え給え。

祓え給ひ 清め給へと申すことの由を 天のふち駒の耳振り立てて聞こし食せと 畏み 畏み 白す

大いなる自然と この地をつくった人に心から感謝。 

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