スーパーの野菜と家庭菜園の野菜のおいしさの違いから、これからのデザインの未来を考える

ダイバーシティ、多様性が社会に必要と言われるようになってからしばらく時間はたったと思う。性的マイノリティの人たちを受け入れるような雰囲気も生まれ、広告の表現やSNSでの炎上の原因なんかを見ても多様性を受け入れる感覚は広がりつつあるように思える。時代は変わりつつある。

現在、大衆に向けて情報を発信する4大マスメディアの広告費は減少し続け、インターネット広告などのパーソナライズされた広告費は増加し続けている。もしかすると「大衆」は死ぬ運命の途上にあるのかもしれない。

そんな時代にあって、デザインに求められるものも大きく変わらなければならないはずだ。しかし、私個人の感覚としては、まだまだデザインは変革を遂げられていないように感じる。

デザインに求められていたもの

一般的にデザインというと、見た目をかっこよくしたり、美しくしたり、かわいくしたり、と見た目を良くすることと思われている。私たちデザイナーは「見た目を作る人」と思われがちだし、デザイナー本人たちも自分たちをそのように思っている人は少なくない。わたしも最近までずっとそう思ってきた。

「大衆」が機能していた時代から今に至っても、デザインはデコレーションである。その商品・サービスがどれだけ魅力的ですばらしいかを表現して、売上を上げるために施されるものである。極端な話をすれば、魅力のない商品でも見た目を華やかにし、多額の広告費をかけて露出を増やせば売れるという時代はあったはずだ。

「購入してみたら思っていたのとぜんぜん違った」「行ってみたら写真で見たのとぜんぜん違った」という思いは誰しもが経験しているはずだ。

デザインは、時には媚を売り、時には嘘をつき、時には誇張する。そうやって使われてきた。でもこれからはその方法では通用しなくなる時代がすぐそこまで来ているはずだ。

スーパーに並ぶ野菜に潜む嘘

話は変わって、野菜について話をしよう。

スーパーに並ぶ野菜。みなさんは選ぶときにどんなことを考えて選んでいるだろうか。おそらく多くの人が、虫食いがなくて見た目が綺麗なものをえらぶだろう。そもそもスーパーに並んでいる野菜の多くはやけにきれいである。
それもそのはず、JAなどを通して流通する野菜の多くは見た目とサイズで規格が決まっており、その規格に適合したものが流通しているからである。

私たちの多くはは見た目で選抜された野菜を見た目で選んでいる。口にするものであるはずなのに見た目で選ぶのだ。(無論、試食もできないのに味でなんか選べないという意見もあるだろう。しかし、スーパーに並ぶ前の選別の段階で野菜や果物の美味しさを図る方法はあるはず。でも、多くの野菜はその過程を経ることなく流通している)

我が家は春になると庭で過程菜園をはじめる。夏野菜が中心だ。素人が作るのだから、プロである農家が作ったスーパーに並ぶ野菜よりおいしくできるはずがないと思うだろう。しかし、わたしの庭の野菜はとてもおいしい。大して手はかけていない。畑周りの草もボーボーだし、虫もつく。見た目はいいとは言えない。でもスーパーの野菜より格段においしい。その違いは、野菜の流通によるところが大きい。

例として、スーパーに並ぶトマトの流通について書いてみる。
想像してもらいたい。農家さんが手塩に育てたトマト。真っ赤に染まったトマトを丁寧にもぎ取り、袋詰めされて出荷される。当たり前のように想像できるこんな光景の中に嘘が1つある。それは、「真っ赤に染まったトマト」である。実は、流通するトマトの多くはまだ青い段階でもぎ取られる。そして、数日に及ぶ流通期間の中で実を赤く追熟させる。トマトは枝についている間だけ、おいしさを作り蓄えることができる。青い段階で取られたトマトのおいしさは、その段階でストップする、私たちがスーパーで目にする野菜の多くは、見た目がいい状態を保つために、味がないがしろにされているのだ。

我が家の家庭菜園のトマトの方が美味しいのはそのためだ。朝、庭からとってきたトマトをサラダに添える。とても甘い。おいしい。子供達も進んで食べる。本来のトマトのおいしさが我が家にはある。

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さて、野菜の話はこれぐらいにして、デザインについて考えてみよう。

デザインを嘘と誇張から開放せよ

野菜の話から、何が言いたいのかというと「真実を捻じ曲げるデザイン(見た目)はこれからの時代において不要になるし、長続きしない」ということ。

さっきも書いたように、思っていたのと違ってがっかりした経験は誰もが経験している。こういった経験は、かつては家族友人に愚痴をこぼす程度で済んでいたので悪評も拡散しにくかっただろう。しかし、今はSNSやブログなど自由に情報を発信できるし、個人が書いた投稿を拾い上げてさらに拡散をするメディアも少なくない。

仮にこうなれば、その商品・サービスは低評価のレッテルを貼られ、世の中から見捨てられていく。挽回するには多くの時間と労力がかかってしまう。事実を捻じ曲げるようなデザインは継続的な利益を生み出しにくくなっているのだ。

多くのデザインは事前期待を生み出すものである。私たちの商品・サービスはこんなにいいですよ、と伝えるものだ。しかし、誇張表現によって与えた事前期待と、実際に経験した実体験の落差が大きいほど人はがっかりするものである。要は期待はずれになるのだ。

こんなときデザインは悪者になり、無用なものとなってしまう。

ダイバーシティのデザインとブランディング

一番はじめに書いたダイバーシティのくだりへ話をもどす。多様性に溢れかえった世界では大衆はどんどん小さくなる。いずれマジョリティという言葉がマイノリティになる時が来るかもしれない。たくさんの売上を上げるためにわざわざ嘘をつき、媚を売ったところで、そこに大衆はなく、ただ悪評だけが広がるだけである。

これからの時代において必要とされるデザインは、真実そのものを正しく表現したデザインである。商品・サービスのスペックやベネフィットを正しく伝え、少数だとしてもそれを必要とする人に届けられればそれでいいのである。嘘をつく必要はない。真面目に、ライフスタイルを支えてあげればそれでいいのだ。

正しく物事を表現するためにはデザインという言葉がはじめから持っている意味を知ることが重要だ。

デザインには「style(意匠)」という意味がある。これは皆さんが一般的に捉えている「見た目を整える」という役割。かっこよくしたり、美しくしたり。一方でもう一つ大事な意味も持っている。それは「plan(計画)」という意味。例えば、保険やさんやファイナンシャルプランナーが「ライフデザイン」と言ったりするように、何かを組み立てる意味も持っている。

だからほんとうはデザイナーは見た目だけをかっこよくすればいいのではなく、クライアントの思いや商品のスペックなどを正しく理解し、どのように表現をするべきかを考えられなければならないのだ。むしろ、この裏側を考えずしてデザインできない、というのが私の持論でもあるのだけれど。

その場しのぎの販促や宣伝広告、ただかっこよさやインパクトを求めたデザインは意味を成さないどころかマイナスを生み出しかねないということ。だからきちんとしたブランディングとブランドエクスペリエンス(お客さんとの接点をどう整備していくか)をが重要なのである。


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