「半分青い」と「人生を創作物へ昇華する」こと

※「ハニカムブログ 」2018年6月12日記事より転載

朝ドラの「半分青い」を楽しみに見てるんだけど、ストーリーもさることながら「人生を創作物へ昇華する」ということの含蓄に満ちていて素晴らしい。


漫画家を目指す主人公の鈴愛が、生まれた時からそばにいた自分の分身のような男の子と別れて抜け殻になってるとき。

豊川悦司演じる師匠は、

「それをマンガにしろ!描くことで人は癒される」

と、鼓舞する。


鈴愛がその想いを雲や月、色など抽象的なものに投影しながら、時に事実を俯瞰で眺めながらポツポツ話すと、聞く側に明確なビジュアライゼーションを喚起する。

その描写は、実際にあった悲しい出来事そのものよりもずっとずっと心に響く。

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以前、田口ランディさんのクリエイティブ・ライティングのクラスに参加した時、

「ネタは(潜在意識を含めた)記憶の中に全部ある。それを直観を使ってひきずりだして、情景や風情をビジュアライゼーションできるように書いていく。」

と教わった。

たしかにそうすると、生々しい、あるいは生き生きした、つまり「生」そのものの何かがつまったものが、参加者みんな書けるようになった。


そして、ランディさん自身もデビュー作を書くことは、引きこもりの兄の孤独死に対する感情を癒す過程だったとおっしゃっていた。

「書くことはセラピー。」

その言葉の通り、書きながら、読み上げながら泣いてる人もいたけれど、不思議とその場の空気が濁ることなく、神聖な儀式のようなクラスだった。


「半分青い」の脚本家の北川悦吏子さんは、生来腎臓が弱かったり、片耳失聴したりしているご自身の体験をプロットにもり混んでいるけど、クリエイターとして生きて来た「人生かけて創作に向き合う」という視点も、テーマなんだろうなと思う。

だからこそ秋風羽織先生と鈴愛の対話で起こる名言の連発から目がはなせない。

この世界において、「働くことは生きること」である。


物語を紡ぐ人でなくとも、「仕事(必ずしも金銭を生み出すものとは限らないし、子育ても含む意味での)」がその人の人生の創造物ならば、

自分の体験、経験を感受性センサー120%で受けとめて、創造物として生み出し続けること。

それは、自分の過去や人生を肯定することでもあり、生を密度濃く全うするためのポイントなのかな。

■ 小松ゆり子 official web site
http://yurikokomatsu.com


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