水滸伝2

梁山泊に憧れて

(↑パチンコではありません)
こんにちは中小企業診断士の廣瀬達也です。

すっかり涼しくなってきました。私は社会人2年目の11月に初めての「異動」なるものを経験しました。新しい部署への初出社の11月1日、夏服スーツで出社し妙に涼しかったことを今でも覚えています(そのスーツがバブル時代っぽい、というはまさにバブル時代のグレンチェック・スーツだったことも……)。

さて、音楽の秋。今回はちょっと個人趣味的音楽ネタに回り道しますが、終わりのほうで診断士に引き寄せるのでしばらく、お付き合いください。

先日井上陽水のコンサートに行きました。

井上陽水

井上陽水は福岡県出身のアーティスト。私は同じく福岡県出身の「甲斐バンド」のファンです。甲斐バンドがアマチュア時代に活動していたのが福岡にある伝説のライブハウス「照和」(出張などで福岡を訪れた際には「聖地巡礼」しています)。この「照和」は多数のビッグネームを輩出しました。井上陽水、チューリップ、海援隊、そして甲斐バンド(他には鮎川誠、長渕剛、陣内孝則・・・なども)。この4組、「照和」を舞台にときに袖すれあっています。そんな彼らの逸話は結構好きです。

甲斐バンド

●「照和」でボーイ兼駆け出し演奏者として働いていた甲斐よしひろは、一時的に都落ちしていた(既に一度東京進出はしていた)陽水と「照和」で遭遇。「コーラ1杯しか出せませんが」という店主の申し出を受けてステージに立つ陽水はわざわざギターの弦を張り替えてステージに立つ。それを見た甲斐よしひろは「コーラ1杯のステージのために弦を張り替える陽水の姿にプロとして東京で生きていくことの凄味を知った」と後に語る。

●70年代初期に「照和」で最も人気があったのは、チューリップ海援隊(当時、甲斐よしひろはまだ駆け出し)。そして、先に東京メジャーデビューが決まったのがチューリップ。そのとき財津和夫に力量認められた海援隊のドラマーがチューリップに引き抜かれた。

チューリップ

●甲斐よしひろの著書「荒馬のように」によると、「照和でバイトしながらステージに立っていた当時、武田鉄矢は生意気だった」らしい。(甲斐よしひろの方が年下なのだが・・)。

海援隊

●照和で人気を蓄えていたチューリップが九州地区代表として自信満々に出場した1969年のヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト。チューリップの財津和夫はオフコースを聴いて「負けた」と思い、オフコースの小田和正は「赤い鳥」を聴いて「負けた」と思った。グランプリを取ったのは「赤い鳥」。(そして、その「赤い鳥」は後に分裂解散し「紙ふうせん」と「ハイファイセット」が生まれる・・)

赤い鳥

同じ業界にいると、いろいろ袖振り合うことがあります。ビッグネームになった人たちの「生い立ち的なつながり(時にすれ違い)」を後になって聞く(読む?)とドラマチックですね。他に有名なところでは漫画業界の「トキワ壮」(手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らが住んでいたアパート)もそんな感じがします。

ひょっとしたら診断士も同じ。

受験生時代の勉強仲間、実務補習グループの仲間、プロコン塾の仲間、診断活動チームの仲間、研究会の仲間・・・などなど、将来私たちがビッグネームになった時、「同じ研究会だった人たち」「同じプロコン塾だった人たち」と言われるときが来ると嬉しいですね(既にチラホラあるのかもしれません)。

ちょっと秋の妄想風でした。それでは今回はこのへんで。

照和


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