ブラームスとクララ・シューマンは恋愛関係にあったのか《1》
ブラームスとシューマン夫妻の出会い
バッハ、ベートーヴェンと並ぶ「ドイツ三大B」の一人であるヨハネス・ブラームス(一八三三~一八九七)。四つの交響曲を頂点とする作品群は、ベートーヴェンの伝統を引き継ぐ荘厳な構築美に満ちており、「後期ロマン派の巨匠」の呼び名にふさわしいものです。
ハンブルクのコントラバス奏者の息子として生まれたブラームスが、生涯を決定づける重要な出会いを果たしたのは、一八五三年九月三〇日のことです。著名なヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムの勧めに従い、ロベルト・シューマン(一八一〇~一八五六)の自宅を訪問したのです。
若き才能を見出したシューマン
シューマンは出版業者の子であり、当初は法律家を目指していました。しかし、音楽の才能もあったことから、二〇歳にして音楽家になることを決意します。猛練習による指の故障のためピアニストへの道は断念するものの、文学の素養を生かしながら作曲の方面で才能を発揮しました。優れたピアニストであった妻のクララ(一八一九~一八九六)は、シューマンの作品の最大の理解者であり続けました。
シューマンと言えば、『子どもの情景』などのピアノ曲や歌曲が知られていますが、同時に若い音楽家の才能を発掘する評論家でもありました。前述した出会いの時、シューマンは四三歳、ブラームスは二〇歳。シューマンは若きブラームスの才能を激賞し、日記に「天才、ブラームスが訪問」と書き残しています。ブラームスより一四歳年上のクララも、夫と同様にこの青年の豊かな音楽性の虜になりました。
シューマン家を襲った悲劇
ところが、充実した日々は長く続きませんでした。すでに精神疾患の兆候が出ていたシューマンは、翌一八五四年二月に発作を起こし、ライン川に投身自殺を図ります。救助されたシューマンは精神病院に収容され、一八五六年七月に息を引き取りました。クララは七人もの子供を抱えたまま未亡人となり、一家を支えねばならなくなります。
シューマン家の苦境に対し、ブラームスは支援を惜しまず、クララとの交友関係は生涯続きました。両者は極めて深い絆で結ばれていたことから、「ブラームスとクララの間には恋愛感情があった」という風に語られることもあります。
(続き)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?