「皮膚から染みこんでくる」感覚を自覚できるか

 「皮膚から染みこんでくる」というと私たちは何を想像するだろうか。私たちは「染みこんでくる」とか「染みこむ」「染みわたる」ということばを使う。「五臓六腑に染みわたる~」なんて表現は英語にはならない。詳しく調べていないが、文化として通じる感覚はどこまでなのだろうか。
 こんな文章に出会った。

職場の規範のような者が自分の皮膚を通して浸透してくるということであった。頭に組み込まれるというよりも、皮膚から浸透し、感覚を変質させてしまうような、そんな感じがしていた。そして、そういったことを嫌だと感じていたいが、抗うことができなかった。抗うことは、コミュニティの外で仕事をしないといけないということを意味するのだと直感的に感じていたからである。(松田博之「ピアワーカーの政治」当事者研究と専門知 金剛出版所収)

 どうだろう。前半部分は「皮膚を通して浸透する」という感覚、そして後半は変質された感覚を自覚したあとに抗うことはコミュニティの外におかれるという直感的感覚の2つがこの短い文章の中で語られる。
 空気感 
 ということばにも共通するが感じをもつが、ここでは「皮膚を通して浸透して入り込んでくるこの感覚」により着目したい。そして、その自覚化について。
 空気感であれば、空気を読む読めないとか、同調圧力を感じるとか感じないだ。この表現だと「空気を読むこと」によって私たちは立ち振る舞いを変えられる(かもしれない)。しかし、浸り透すという「浸透」はもっともっと内部に入り込む。まさに「環境が人を変える」のは、こうして人に皮膚を通して浸透していく感覚を私たちが無自覚にもっているのだろう。そう無自覚に。
 コミュニティの規範が私たちの生きることに入り込んでくるのは「皮膚を通して浸透する」そして同化していくのだ。ここでのコミュニティは、地域を示しているのではない(作者は同意としていたのかはわからないが、私の解釈では)。人が生きるために所属する集団のことを示している。コミュニティは同質性を権力としてもつ。所属するためには、そのコミュニティに規範をもって参加することを求められる。規範はルールとは違う。機能的ではない。ゆえに、皮膚を通して浸透するということばがピッタリだ。
 いま多様性ということばを掲げているいろいろな場面でこれらのことは意識されているのだろうか。Aというコミュニティに異質なBというコミュニティをして、ABというコミュニティを作っても日本の場合は単純には多様性にはならない。そう皮膚に浸透している感覚が違うままにABというコミュニティにルールを守って参加しているだけだからだ。Aコミュニティの規範とBコミュニティの規範はそれぞれの所属員の皮膚感覚として浸透しているからだ。そして、私たちは個がないのでそれに無自覚だ。
 多様性をつくる取り組みはこの15年ほど一気にひろがり、インターネットコミュニティの発展により一気に進んだようなに感じると同時に、折々に露呈する「ひとりひとりに内部化している規範」が差別や特権意識、そして排除と不自由さ、そして、生きづらさを生んでいる。

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