文章を書くのは紙、デジタル、どっち論争

こんにちは、としです。

今回は題名の通りの話題について書くことにします。これはつまり、noteとのお別れを意味することになります。(文章書いてる途中に気が変わったらごめんなさい)

留学にきてから強く感じていることがあります。英語では自分の気持ちの数パーセントしか相手に伝えることができないということです。ここで私は考えました。もしかしたらこれは日本語でも同じなのではないか。

私の場合、英語で地震の気持ちについて話すときは使える表現を先に探してしまいます。自分の気持ちを正確に表現することよりも相手に伝えることを重視してしまうのです。中学生の頃の英作文を思い出してみてください。将来の夢について作文するとき、もし本当の将来の夢が薬の発明だとして、それを英作文に書くでしょうか。きっと書きません。英語の先生(English teacher)とか、野球選手(Baseball player)とか、書きやすさを重視して将来の夢について書くと思います。

別にこれは何かを批判することが目的ではありません。何の言語であれ言語には限界があることを伝えたいのです。確かに僕は日本語のほうが自分の気持ちを英語よりもはるか正確に相手に伝えることができます。でも母国語もその例外ではありません。限界あがあります。

では、文章とは何のために書くのでしょうか。私の結論は、人に何かを伝えるためです。拍子抜けですかね、何も新奇なことはありませんでした。

文章とは人に何かを伝えることに適していますが自分の考えを表すには表現の範囲が狭すぎます。書く方向が決められているし、絵や図はろくににかけない。自分の考えを整理するには紙のほうが優れていると感じています。

私は”note”を書くことが目的になっていたんです。今をときめく多くの人がnoteを利用し、マネタイズできる人まで出てきている。自分がその一員になった気がしていただけでした。

自分の真の目的は何だったか。自分とは何者かを知りたい。何が好きでどういうことをしていると楽しくて今後何をしていきたいのか。これを知ることなんです。

この目的が分かった今、誰かに伝えるために表現を制限される文章ではなくノートに殴り書きをしていたほうが目的に近づけると考えたのです。

人に何かを伝えることは本当に難しくて奇跡みたいにも見えます。生物が初めて意思疎通した瞬間は人類が月に到達したことよりも困難で長い道のりだったはずです。今だってそんな奇跡は簡単には起こせない。ロケットが自身の質量を限界まで減らすように、人に何かを伝えるためにはその要素を限界まで単純にすることが求められます。現実は小説よりも奇なりとはよく言いますが、そんな現実を小説化よりも正確に文章にすることは極めて難しいはずです。

最初から人に伝えることを目的にしてしまうとどうしても言語の限界から抜け出せないで思っていることをかけない。少なくとも言語化能力に乏しい自分にとっては。

言語化というワードが出てきたのでこれについても少し触れます。当たり前のようですが、言語では自分の出会ってきた表現しか使えません。言葉を少ししか知らなければ言語化するのはとても難しい。本を読んだり、外国語を学んだり、様々な表現を知ると言語化能力が向上します。つまり言語化とは有限なんです。この世のあらゆる表現の中でしか生きられない、まるでケージの中に閉じ込められた鳥のようなものです。文章という形態に縛られるとこのケージはさらに狭くなります。ここで取れる選択肢は二つで、文章力を上げる、つまり様々な表現を学ぶこと。もう一つは文字だけでなく絵とかグラフとか様々な助けを借りること。後者は人には伝わりにくいくらい汚い出来になる可能性もありますが、自分の目的を考えるとこれがいいんです。

結論、文字で自分の気持ちを伝えることは難しいからあきらめたって話です。自分のノートに、自分だけがわかる形で自分をアウトプットしていきたいと思います。だからnoteはしばらくお休みかな(結論が途中で変わらなくてよかった)

とはいってもこんな意思、すぐにひっくり返ってしまうくらい今のイギリスでの生活は刺激にあふれています。すぐ帰ってきても、温かい目で見守ってください!!

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