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芸術の意義

芸術の内包するテーマは広い。それは、単なる美とか、善を扱うわけではないからである。

はじめに人間の話をしよう。彼らは、甚だ愚鈍である。他人に対して、自らに対して、自然に対して、それらすべてに内在する狂気に対して、これは摂理である。そして平衡である。さらに、有機的、動的な天秤である。

ある種の狂気にセンシティブだとすれば、それは、芸術の天賦を授かっている。そういう者は、その才を使うが安し。とは言っても、狂気と密接に向き合うのだから、目があって、石にされたり、イカロスのように、翼を灼かれることもあるだろう。

では、そのような芸術家の意志は、無駄だったのだろうか。違う。鈍感な人間を生かしているではないか。私は、西洋的な進歩主義には猜疑的である。歴史には、確かに過去があるが、過去は劣ではない。山を流れる沢水は、山を生かすために流れるのであって、大きな海原を目指しているわけではない。結果として、海に合流するものもあるだろうが、いずれ雨粒となって、山の頂上に降り注ぐ。

芸術の使命を受けた者は、人々に生きる糧を与えるものである。この際、彼らが与える糧とは、一体なんだろうか。

ここで、また人間の話をしたい。なぜ多くの人々が、愚鈍でなければならないのか。極論、あらゆる狂気を理解することができたならば、この宇宙は終わってしまうかもしれない。そうなれば、人々が鈍感であるほうが都合がいい。むしろそのように都合していると言わねばならない。であるから人間を含めた森羅万象が、ある程度、無知である。そして人間は、自然的な由来であることすら忘却しようとしている。

私が思うに、全く無知なものというのも、また宇宙を破壊する要因に成りかねない。プラスチックのような一見して無機的なものでさえも、知という構造を獲得している。これは、物理法則にも掛かっているし、その他、全く物知らずというわけでもなさそうである。

ここまでの結論として、森羅万象は、知の構造を有している。殊、人間に具象するならば、物知らずも物知りも程度があるということである。

話を変える。そもそも人間は、何によって、行為をするのか。人々が行動するために何がトリガーとなっているのか。私は性欲だと思う。これは、あくまでエロスということである。単純に卑猥な感を提示するわけではない。それは、エロティックなものの、限定的なカテゴリである。ここで言うエロスは、プラトン的な語源である。フロイトのリビドーにも近い。

ところで、なぜ人々は戦争をするのだろうか。なぜいじめがなくならないのか。なぜ共産主義が空想的なユートピアのままなのか。皆、道徳と法を持ち合わせているのに、忽然として、悪が表出する。時として、善意のある悪が、悪意のない悪が、蔓延る。

エロティックなものは、我々に快楽を享受する。しかし、快楽は無限的なものであろうか。人間の性衝動は、確かに自然に到達したいと憧れている。それに対応するように、理性がブレーキをかけるのだが、時代によっては、このバランスが、性欲に傾くことがあるだろう。そのとき均衡状態から、移行するとなれば、何を持って、その剰余をやりくりするのか。

方法にして、二通りしかない。パイを増やすか、再配分するかである。この快楽の剰余性に、人々は、無自覚である。さらに性欲における暴力性にも無自覚である。であるからして、再配分においても、自らの損は、端から考えもしない。もし全人類がこれを自覚するようならば、総じて、貧困になる。これは私の憶測だが、生存戦略として、全ての個体が、等しく貧乏になるのは、好ましくないのではなかろうか。

人間の本性を垣間見て、ある種の狂気が、摂理的であることを知った。もし芸術に意義があるならば、この残酷な、グロテスクな、側面を人々に自覚させることである。やはり人間は、愚鈍である。自らが自然そのものではあるが、自然そのものでは、狂気を自覚することができない。より自然に敏感な者が、自然を対象化し、手を加える必要がある。狂気は違った狂気によって共鳴し、ハーモニーが生まれる。これは和音であり、リズムであり、メロディーであり、音楽である。芸術は、その行為を持って、また芸術である。

近代以降、芸術というものが、より大衆に波及するようになった。消費的な意味合いの強いポップアート、カルチャーが、人々の持つ、剰余的な気質や、祝祭的な本能に訴えることで、部分的ではあるが、パイを増やすことに成功している。では、人々の悪の花が咲くことは無いのだろうか。

あるだろう。最も普遍的な性質は、自然の側にある。ポップアートや商業的にカスタマイズされた芸術というのは、離乳食であって、消化に良い分、すぐ排泄される。所詮、赤ん坊なのだ。皆、自身より、偉大なものに対しては、甘えることしかできない赤ん坊だ。家族が、学校が、地域が、国が、自然が、偉大なる母として存在し、胎児だった頃の記憶が、喪失感を煽情し、声帯を震わし、産声となって報せる。

ここに芸術は必要かもしれない。



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