いのちを頂くから「いただきます」と言う。

堀江貴文さんのヴィーガン叩きは有名だが、私が彼のファンであるのとは別に、この意見には結構賛成である。(彼の攻撃性はさておき)

ヴィーガンの定義としては、動物性タンパク質を食べない、程度にしておこう。つまりは、肉や卵など。牛乳も入れる場合もあるらしい。

日本では古来、仏教の影響から肉類は禁止されてきた。神道にも記載はあるのかもしれないが、私はそこは詳しくないので言及を避けよう。でも魚は可である。なぜか。そう考えると、古来の日本では、肉をしっかり安全に食べる技術というのが発展してなかっただけのように思える。単純に言えば、生で食べることに危険があるからである。魚は刺身で食べられるし、そこにどういったいのちであるか、の選別はあまりないように思う。

つまり、日本においては、植物や動物、それらは全て平等ないのちである、と言う捉え方をするのではないだろうか。さらに言えば、人間がそれらを食することを自然が許容しているように思う。

一方で、ヴィーガンの人たちの考えでは、植物と動物の間に明確な区分けが見られる。おそらくそれは身分制度のようになっており、植物だけは食べてもいい、となっている。彼らの思想に詳しいわけではないが、もし、彼らの思想を突き詰めてしまえば、ひとは何一つ食べられなくなり、餓死するほかない。ひとの存在を頂点とするというか、彼らの中に潜む階級制度を私はあまり好まない。

私の考えは、自然が我々人間が上に立つことを許容してくれている、という感じである。だから、人間以外において、植物や動物に区分けはなく、それらもしっかり食べなさい、というものだ。また逆に、動物が人間を食べることもそれらももちろん許容されていたが、それは人間の知恵が勝ったと言いたい。

人間が立っているのか、立たされているのか、そこはそれぞれに任せよう。ただ、私は立つことを許容してもらっているという考えだ。

私は介護職をしているので、高齢者に頻繁に接する。私が出会う長生きの高齢者はやはり肉好きな人が多い。肉というのは、生命力に溢れている。だから植物よりは力があるのは当然な気がする。単に栄養素が詰まっている、と言えばより理解できるだろうか。

身体を屈強にするには、やはりそういう食べ物が必要である。精神も同じことで、やはり戦闘に強くなるのであろう。現実的な戦闘を避けようと、仏教は肉を禁じたのかもしれない。真実はわからないが、少なくとも仏教において、この禁忌を侵したからと言って因果応報が巡ってくるという記述はないはずだ。

私の結論を述べよう。

強くなりたいならお肉でも何でも食べなさい、ということ。野菜もお肉もお魚も好きなら全部食べなさい、ということだ。(嫌いなものまで食べる必要はない)

ヴィーガンのひとたちは、科学的に言えば体調悪化は免れないし、身体的にも弱くなる。サプリメントでどうにかする、という話もあるが、そこまでしてヴィーガンでいる必要のあるものなのかと思ってしまう。思想的に言っても、そこまでの禁止事項を求める思想というのは私はあまり良いものとは思えない。

彼らはもしかしたら、動物を守っているつもりなのかもしれない。でも、あなたの愛する動物だけが自然なのではない。自然というのは、もっと大きくあなたたちの手には負えない。あなたたちの守ろうとしているものの対象を間違えないように。あなたが守るべきものは、この自然であり、地球であり、人々なのである。

だから、日本人は食べる時に「いただきます」という。大きな自然の一部をいただく、それに我々は生かしてもらっていることを体現する。そして、食べ終わったら「ごちそうさま」と言うのではないかな、と思う。なので、楽しく、美味しく、必要な分だけいただきましょう。





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